長尾郁三郎 旧邸


今日は石碑です。石碑は地味ですが、意外な歴史が隠されていたり、石碑の建立そのものに物語があることもあります。この長尾郁三郎をご存じの方は歴史好き・京都好きか、幕末好きの方でしょう。(ちなみに私は、考古学の時代から近現代まで含めた「歴史」全体が好きです。)

足利三代木像梟首事件と六角獄舎の悲劇

さて、長尾郁三郎(武雄)は綿商人の子として生まれ、やがて江戸に出て平田篤胤に国学を学び、帰京後は勤皇の志士となりました。
1863年2月22日夜には十数人で等持院に押し入り、足利将軍家の木像の中で尊氏・義詮・義満のを三条河原にさらした人物たちの主犯格とされています。この事件を「足利三代木像梟首事件」と言います。「梟首」を読めましたでしょうか。「きょうしゅ」と言い、斬首の後さらし首にすることです。歴史の表現は時として現代の言葉とかけ離れていることがあり、歴史のハードルを高くしている理由の一つでしょう。
話を戻します。幕末には天皇を尊ぶ尊皇思想が起こりました。その視点に立つと、初代の足利尊氏と2代目の義詮は、後醍醐天皇やその子・後村上天皇と対立した許せぬ人物。3代将軍の義満の時代になって、南朝の持っていた三種の神器が北朝にわたり南北朝は統一されますが、義満は南朝と北朝が交互に即位する約束を反故にしてしまいます。尊皇派にすれば特にこの3名は憎い。
折しも徳川14代将軍家茂が攘夷の約束のために上洛をする時期でした。かつての将軍の木像の首をさらすという行為は、現将軍の家茂や幕府を非難する思いがあったのでしょう。
事件の後、僅か5日で彼らは捕まります。実は一味の中に浪士探索にあたる会津藩の人物がいて京都守護職・松平容保に密告したのです。長尾郁三郎は六角獄舎に入れられてしまいました。尊氏らは朝廷から「贈従一位太政大臣」のような高い位を贈られていたため、木像を辱めることは朝廷を軽蔑しており許しがたい、との論理でした。なんとも皮肉な話です。

そして1864年に蛤御門の変に伴う大火がおこり、獄舎にも火が迫ります。当時の六角獄舎には長尾郁三郎だけでなく、平野国臣・古高俊太郎ら勤皇派の志士ら30数名が捉えられていました。脱獄を恐れた幕府の役人は彼らを斬首します。むごい事件です。長尾郁三郎は20代後半の若さでした。彼らの墓は円町駅近くの竹林寺に残されています。

現在の石碑

現在の長尾郁三郎邸宅の碑は「三条通西洞院西入南側」にありますが、見つけるのが結構難しい場所にあります。近年石碑のある敷地の建物が改築されたようで、非常に狭い場所に立っているのと、電柱のすぐ裏で、普通に三条通を歩いていても気付かず通り過ぎてしまうでしょう。石碑の西側面には郁三郎が詠んだ「梓弓 とる身ならねどますらをが ひきはかへさじ大和魂」との句が刻まれていますが、見るのは大変です。
建碑をしたのは「京都養正社」の長尾実という方。養正社は明治時代に発足し、京都霊山護国神社の祭礼にも関与しています。長尾さんは、子孫の方かもしれませんね。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として9年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。散策メニューはこちらから

より大きな地図で 長尾郁三郎 旧邸跡 を表示

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です