下鴨神社の蹴鞠はじめ


4日は下鴨神社蹴鞠(けまり)はじめとして蹴鞠の奉納が行われました。

本日から企業や官公庁は本格稼働のようですが、まだお休みのところも多いようで、蹴鞠はじめが行われる下鴨神社の境内は例年大いに賑わいます。今年も蹴鞠が始まる午後2時頃にはかなりの人垣が出来ており、後ろからは飛ぶ鞠しか見ることができません。が、こういう時は「粘り」が肝要です。蹴鞠は三ゲーム(三座)行われ、合計約1時間かかります。その間に人垣の前の方は順番に離脱していきますので、初めは一番後ろでも最後の頃には前列に行くことも可能です。なお、一般的には午後1時半~と各情報サイトでも案内されますが、1時半からは神事が行われて、実際に始まるのは例年午後2時頃です。

蹴鞠は、鹿皮で作られた鞠を皮製の沓(くつ)で蹴り上げて、地面に落とさないようにパスを続ける遊びで、勝負を競うものではありません。いかに相手に取りやすい球を蹴ることができるかが重要視されています。蹴鞠は、およそ1400年前に中国から伝わり、日本では独自に発展を重ねて、天皇・貴族・武家から広く民衆に至るまで楽しまれました。しかし、文明開化の明治の世へと変わり、西洋の風習へと移行する流れの中、蹴鞠をはじめとする日本古来の風習は失われつつありました。そこで、明治天皇によって蹴鞠を保存する命が下り、明治36年に蹴鞠保存会が創立され、現在にその技が継承されています。なお、下鴨神社では戦前から蹴鞠の奉納が行われています。

本殿前での神事を終えると、蹴鞠を行う場所(鞠庭:まりば)で「始まりの儀」が行われました。お祓いのため松の枝にくくられていた鞠を外します。これは野球などで言う始球式のようなものだそうです。その後に、鞠を中央に置き、鞠を蹴る人が順番に入りますが、最初の方が一番位が高く、その時の日差しや天候を考慮した一番良い場所に立つことができるそうです。そして各々試し蹴りをして蹴鞠が始まります。

鞠を蹴る時の掛け声には、「アリ」「ヤア」「オウ」の3種類がありますが、この由来には面白い話があります。平安時代の公卿・藤原成通は蹴鞠の名手として知られていました。彼には、恐るべき練習量から来る超人的な逸話が残されています。例えば、蹴った鞠が雲の上まで達した、鞠を蹴りながら清水の舞台の欄干の上を往復した、台盤に乗って鞠を蹴ったが音一つしなかった、など、現代のリフティングの達人も顔負けの技術だったのでしょう。

ある時、成通は蹴鞠の上達のために千日間の練習を行うとの誓いを立てます。努力の末に誓いをやり通した夜、祭壇に置いた鞠が転げ落ちました。成通がその先に目を向けると、なんと!顔は人間ですが、手足と体はサルのような姿をした三人の「鞠の精」が立っていたのです。鞠の精は成通の努力をたたえるとともに、「蹴鞠をする時には、私たちを呼んでください。すぐに参上します。私たちはあなたを守護し、蹴鞠の技をもっと高めると約束しましょう」と告げ、姿を消しました。その鞠の精の名前表記が、夏安林・春楊花・桃園で、そこから蹴鞠の際には、精の名前をそれぞれ「夏安林=アリ」「春楊花=ヤウ(ヤア)」「桃園=オウ」と呼ぶことになったそうです。あの声には精の力を借りる意味があったのですね。また、掛け声を出すことで自分が鞠を蹴るという意思表示にもなっているようです。

この日は冬型が強まって風が強く、さらには雪も舞うという悪条件。装束や鞠などに雨や雪には弱いそうで、ひどくなれば中止とのアナウンスがありましたが、なんとか無事に最後まで行われました。そのような条件の中でも、掛け声とともに見事な技を見せて頂けました。蹴鞠の鞠は完全な球面ではありません。そのため微妙な蹴る場所の違いによって様々な方向へと飛びます。それを瞬時に判断して受け取るだけでなく、姿勢や蹴る足の高さ、さらには右足で蹴るといった「作法」も守らねばならず、傍から見ている以上に難しいものだそうです。では、前置きが長くなりましたが、見事な蹴鞠の様子を動画でもお楽しみください。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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