得長寿院 平家の盛衰を見た、もう一つの三十三間堂


今年の大河ドラマ「平清盛」が始まりました。その平氏での父親役で中井貴一さんが演じているのが平忠盛(ただもり)。彼は清盛へと続く平氏の時代のまさに基礎を築いた人物。彼が出世していく過程の一つに、元祖の三十三間堂・得長寿院がありました。

今、京都で三十三間堂といえば、清盛が後白河上皇のために建てた蓮華王院のことです。清盛が建てた当時の建物は火災で残っていませんが、鎌倉時代に再建された堂内には1001体もの千手観音が並び、その内、少なくとも124体は清盛が奉納したものが残っているそう。まさにこの場所で、多くの人々と向かい合って源平の時代からの歴史の移ろいを眺めて来たのでしょう。なお、「三十三間」とは、柱と柱の「間(あいだ)」が三十三あるためで、「間(けん)≒181cm」という単位とは異なります。また、外から柱の間を数えてみると、実際には「三十五」あります。・・・本当は「三十五間堂」だった!というのは早計で、実は仏像が置かれている内陣を囲む、一間分の廂(ひさし)の間があり、つまり両端の二間分は数えないということです。

三十三間堂(蓮華王院)は、後白河上皇の御所である法住寺殿の一画に作られました。法住寺殿は単なる御所としてではなく、上皇自らの墓所としても築かれたと考える説があります。実際に上皇の墓(法華堂)は三十三間堂のすぐ東にあり、平氏と上皇をつないだ女御・滋子(建春門院)の墓も、上皇の墓のすぐ北にあったと考えられています。三十三間堂の観音たちは、全て東にある上皇の墓の方向を向いていて、上皇は一千一体の観音に見守られて今も眠っています。平日ならば陵墓へも参拝が出来ますので、訪れてみてもよいでしょう。三十三間堂を築かせた上皇の気持ちにも近づけるかもしれません。また、陵墓の法華堂内には後白河法皇の等身大の座像があり、その見事な複製は法住寺で折に触れて見ることができます。

さて、このように現在の三十三間堂は、清盛の世代によって築かれましたが、実は父の世代にも同様な三十三間堂が造られていました。忠盛が、鳥羽上皇に寄進をした得長寿院です。平家物語では「忠盛備前守たりし時、鳥羽の御願、得長寿院を造進して、三十三間の御堂をたて、一千一体の御仏をすえ奉る」と記載をされ、まさに元祖の三十三間堂!忠盛は財力はあったものの、まだ武士として身分は低く見られており、朝廷の実力者であった鳥羽上皇に忠誠心を示す必要がありました。その甲斐もあって鳥羽上皇にも認められ、武士として初めて内裏の清涼殿への昇殿を許されることになります。忠盛36歳の時だったといわれています。

しかし貴族たちは面白くない。忠盛を闇討ちにしてやろう!となっていきます。・・・次週(1月29日)の大河は「殿上の闇討ち」ということで、この場面が描かれるのでしょう。「伊勢平氏(いせへいじ)はすがめなり」で知られる、公家独特の「いじめ」の場面も出てくるかもしれませんね。そして「さすがは忠盛!」という場面も。事の次第は放送にゆだねるとして、忠盛の出世に三十三間堂が寄与していたことは、後の清盛も意識をしていたことでしょう。

元祖の三十三間堂こと得長寿院の建物は、今の岡崎・当時の六勝寺の付近にありましたが、残念ながら残っていません。1185年、平家が壇ノ浦で滅亡した後に京都で起こった大地震によって崩壊してしまいました。平家物語によれば、三十三間の柱間のうち十七間までが倒壊をしたそうです。平家が出世するきっかけとなった元祖の三十三間堂は、平家が滅亡した年に大地震で姿を消した。まさに「春の夜の夢のごとし」。歴史の奇縁を感じるできごとです。現在、得長寿院の跡地には石碑が残るのみですが、かつて南北に延びる長いお堂があったと推定される場所は東大路になり、琵琶湖疏水も交差しています。かの時代から900年近くを経て、かたや車が行きかう大路へと姿を変え、かたや一千一体の仏の姿を今の世に伝え、無常の世にも変わることなく残ってきました。知れば知るほど、その素晴らしさを感じずにはいられません。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

より大きな地図で 得長寿院跡の石碑 を表示

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