仁王門のある頂妙寺


平安神宮の大鳥居の前、琵琶湖疏水に沿って東西に延びるのが仁王門通。この通り名の由来となった仁王門を持つのが日蓮宗の本山の一つ・頂妙寺です。実は、頂妙寺の仁王門には金剛力士(仁王様)はいらっしゃいません。

一般的に仁王門といえば、阿形(あぎょう)・吽形(うんぎょう)で知られる、筋骨隆々な仁王様・金剛力士がいらっしゃる門ですが、頂妙寺の仁王門にいらっしゃるのは、持国天と多聞天です。ということで厳密には「二天門」となります。ただ、二天には仁王の意味もあるため、二天門でも仁王門でもどちらも用法としては正しいことになります。少々ややこしいですが、仁王門といっても仁王様(金剛力士)のいない門もあるということです。

頂妙寺の仁王門の持国天と多聞天は、運慶の作とされます。何度も火災に見舞われた頂妙寺では、とっさに像の首だけを持って逃げることもあったそうで、今でも首だけが当時のものとのこと。向って右が持国天、向って左が多聞天で、古くから人々の信仰を集めていたそうです。それぞれ腕を掲げ、金剛力士に負けず劣らずの力強さと威厳を持った像。是非、金網の隙間から覗いてみて下さい。

また、仁王門には豊臣秀吉から布教を許された時に拝領した許状の扁額が掲げられています。「布教を許された」ということは禁止をされた時期がありました。戦国時代、織田信長は安土城に浄土宗と法華宗(日蓮宗)の僧侶をそれぞれ集め、問答をさせます。その中には当時の頂妙寺の高僧も入っていましたが、結果的に法華宗が破れ、以後他の宗派への布教を行わないことを誓わされたのでした。しかし、信長が本能寺の変で討たれて秀吉の時代になると、再び布教を許されます。布教ができる喜びを広く京都中に示すのがこちらの扁額。「豊臣太閤秀吉」の文字を読むことができます。

頂妙寺はかなり広い境内を持っています。実は頂妙寺は各地を転々としてきた歴史を持ちますが、この地に移ってきたのは江戸時代の1673年。直前に起きた内裏の火事をきっかけに現在の京都御苑内から移転してきたといわれています。その後、1708年の宝永の大火をきっかけとして、御所一体の他の街々も頂妙寺の周りに移転をして「二条川東」という地域が築かれました。通りを挟んで街ごと移動してきた新開地です。南北に伸びる「新丸太町通」が、頂妙寺の南にあるなど「新」と名前の付く通りがその象徴。頂妙寺は、それら新しく開かれた土地の先駆として、この地に広い敷地を持てたのでしょう。

頂妙寺のお墓には、風神雷神図屏風で知られる俵屋宗達(たわらや そうたつ)も眠っています。宗達の墓は石川県にも残されていて、実は晩年も出自も詳しくは分かっていない人物です。しかし、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチとも呼ばれるほどの才能持った芸術家、本阿弥光悦に見出され、その個性あふれる作風は当時から高い評価を得ていました。頂妙寺には「牛図」が伝わり、京都国立博物館に寄託されています。

普段から見られる宗達の作品では、建仁寺の風神雷神図(レプリカ)があります。美しい潮音庭の三尊石の奥にうっすらと浮かぶ屏風が、なんとも言えない京都らしさを醸し出しています。昨年の大河ドラマ「江(ごう)」ゆかりの養源寺では、白象の杉戸絵なども見ることができます。なお、法華宗の信者には、狩野永徳・本阿弥光悦・尾形光琳・長谷川等伯などの文化人も名を連ねました。狩野永徳が描いた「上杉本・洛中洛外図屏風」に、法華宗のお寺が大きく書かれているのも、彼が法華信者であったからとする説があります。

また、境内は大きな銀杏が目を引きます。銀杏は水分が多く火災除けで知られる木で、水を吹いたという伝説も本能寺や西本願寺には残されています。頂妙寺も数々の火災に見舞われてきたために、植えられているのかもしれませんね。境内の秋の色づきは、素晴らしいものがあります。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

より大きな地図で 頂妙寺の仁王門 を表示

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