菅大臣神社の飛梅と紅梅殿


四条通の南、烏丸通と堀川通の半ば辺り、祇園祭の山鉾町の近くに菅大臣神社があります。境内は今、梅が見頃。大宰府へ飛んだといわれる「飛梅(とびうめ)」があり、「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」と菅原道真が詠んだのも、神社の北にあった紅梅殿でした。

現在の菅大臣神社のある地は、菅原道真の邸宅跡で生誕の地(諸説あり)ともいわれています。道真の邸宅は広範囲をしめ、現在の仏光寺通を挟んで、北に紅梅殿、南に白梅殿がありました。現在の菅大臣神社は白梅殿の跡にあり、道真が「東風吹かば」の歌を詠んだのは、もう一方の紅梅殿とされます。

道真は、藤原氏が力を握る中、宇多天皇の信任を得て、学者としては異例の出世を果たし、官職では上から2番目の右大臣にまで上ります。しかし、それを妬む藤原氏が黙っていませんでした。時の左大臣・藤原時平(ときひら)は、醍醐天皇にありもしない道真の陰謀を吹き込んで、結果的に道真は九州の大宰府へと左遷されることになりました。その時に、道真が詠んだのが「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」の歌です。大宰府へ家の主の私が行ってしまっても、春を忘れずに花を咲かせ、都から吹く東風にのせて梅の匂いを届けておくれ、といった意味。別れの寂しさ、無念さをあらわす名歌として、現代に至るまでよく知られています。

実はこの話には少し続きがあり、大宰府へ道真が行ってしまった後、大宰府の邸宅に京都の紅梅殿(道真邸)から梅の枝が飛んで来て、そのまま生えついたといわれます。あるいは道真に長く仕えた白太夫(しらだゆう:渡会晴彦)が、秘かに梅を大宰府に持ち、道真には「飛んできた」と伝えたともいわれます。大宰府での日々を過ごす道真は、ある時その梅を見ながらこんな歌を詠みました。「ふるさとの 花のものいふ世なりせば いかに昔のことをとはまし」。故郷の梅がものを言うとするならば、どれほど昔のことを問うだろうか、といった意味。道真がこうして梅の枝をしみじみと眺めていると、なんと梅の木が漢詩で返事をし、道真が去った後の旧家の荒れようを伝えたとされています。真偽の程は別にして、なんと悲しい物語。実際の紅梅殿は、後の世の枕草子でも清少納言に称えられていますので、建物は存続していたようです。平家物語によると、1177年の内裏も焼けた大火で紅梅殿も焼け落ちてしまいました。

現在の菅大臣神社の北にあった紅梅殿には一見何も残されていないようですが、実は紅梅殿(北菅大臣神社)と呼ばれる神社があり、道真の父・是善を祀っています。まさにこの場所で、道真は梅を眺めて別れの歌を詠んだのかもしれません。そして、大宰府まで一晩のうちに飛んで行ったとされる「飛梅」は、代々受け継がれて菅大臣神社(白梅殿跡)の境内にあります。まさに今が満開。道真もこのような紅く美しい梅を眺めていたのでしょうか。また、大宰府へ飛んで行った梅は、大宰府天満宮の本殿の脇に今も咲いているそうです。

余談ですが、こちらの神社は「菅大臣」神社ということから、数年前に菅総理大臣が誕生した時には話題になりました。現在の境内は普段はひっそりとして、主に地元の方が参拝に訪れる場所なっています。また、白梅殿の跡地には岩戸山町も含まれ、紅梅殿跡地には船鉾町も含まれます。祇園祭の山鉾町になるとは、かの道真も予想はしなかったでしょうか。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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