常照皇寺 散り行く桜


24日は、京都の北、常照皇寺(じょうしょうこうじ)へと、足を延ばしてきました。参道前の枝垂れ桜や、御車返しの桜が満開。ちょうど「左近の桜」も散っていて、素晴らしい散り桜に出逢うことが出来ました。

常照皇寺の桜

常照皇寺へは、京都市街地から車で約1時間半。京都市ではありますが、ずいぶんと遠い場所です。しかしその分、京都の桜の最後にふさわしい見ごたえのある桜が待っています。有名なのは、国の天然記念物にもなっている「九重桜(ここのえざくら)」。この桜は周辺では早咲きで、市内で紅枝垂れ桜が見ごろとなる頃に訪れるとよいでしょう。この日はほぼ葉桜となっていました。樹齢600年以上ともいわれ、開山当初からと伝わる元の桜はかなりの古木となっており、咲かせる花も僅かとはなってきました。しかし、花の美しさは老いも若きも変わりません。なんとか今しばらく、悠久の歴史を秘めた素晴らしい花を見せてほしいと願います。

方丈前の桜は「御車返し(みくるまがえし)の桜」と呼ばれます。突然変異で八重と一重(ひとえ)を同時に咲かせる、純白の美しい桜。「御車返」や「御所御車返」という桜は、桜の種類としてもあり、伝説も少しづつ変化しながら全国的にいくつか見受けられます。常照皇寺の御車返しの桜は、江戸時代の初め、後水尾天皇が寺を訪れた際に目にし、あまりの美しさに何度も車を返したところからそう呼ばれています。実は今の桜は2代目で、初代の幹も隣に残されています。

後水尾天皇・御車返し・一重と八重が同時に、と三つ繋がれば、思い出すのは京都御苑の宜秋門前に植わる「(御所)御車返しの桜」。常照皇寺と京都御苑の桜には全く同じ伝承が残され、一重と八重が同時にという点も共通しています。気になって京都御苑に問い合わせたところ丁寧に調べて頂き、そもそも桜が別の種類であろうとのことでした。確かに、常照皇寺と京都御苑の「御車返しの桜」はそれぞれに花の付き方が違っています。どちらが元祖だろうかなどど、頭をよぎった私が浅はかでした。しかし、後水尾天皇が、別々の場所で同じエピソードを残していると考えるのも面白い。時代が幕藩体制の強化へと動き、天皇の権限も制限されて行く中で、確かな個性を発揮した後水尾天皇。御車を返したのは、桜の美しさに惹かれたのか、一重と八重が同時に咲く個性に惹かれたのか・・・。

さて、この日の常照皇寺で最も素晴らしい桜の生きざまを見せてくれたのが「左近の桜」。江戸時代に、京都御所・紫宸殿前にある左近の桜を移したものといわれ、なかなかの大木となっています。桜は満開時だけでなく、散り際も美しいもの。左近の桜の散り際は、単に桜吹雪というには失礼なほどの猛吹雪でした!ともかく動画をご覧いただければ、私の思いはお伝えできるかと思います。

桜吹雪は過去に何度も見てきましたが、ここまで勢いがすごいものは滅多にお目にかかることがありません。まるで桜に意思があるかのように、吹雪となって花を散らせていました。桜がこれほどまでに好かれるのは、やはり散り際の美しさがあるからでしょう。潔く、惜しげもなく、儚く消える雪となって花弁を散らす姿は、現実のこととは思えないほどの、映画やドラマの一場面のような空間を作り出していました。

常照皇寺と光厳天皇

常照皇寺は、北朝初代の天皇、光厳(こうごん)天皇が晩年を過ごしたお寺として知られます。北朝の天皇ということで、歴代天皇の代数には一般的には加えられていません。京都検定では、現在の京都御所の場所にあった里内裏で即位をした天皇として名前が出てきます。天皇が生きた時代は、まさに激動。先代が鎌倉幕府の討幕を画策した後醍醐天皇でした。後醍醐天皇は何度か倒幕に失敗して退位させられます。そして鎌倉幕府によって立てられたのが光厳天皇でした。

諦めない後醍醐天皇は、各地の武士を味方につけ、鎌倉幕府を滅亡に追い込みます。そして京都にあった幕府の本拠地・六波羅探題も、足利尊氏らによって攻め落とされるに至りました。その際、光厳天皇は六波羅から鎌倉へと落ち伸びる一行に同行しますが、各地で野伏(のぶせり)と呼ばれる、武装した農民集団による落ち武者狩りにあい、一行の人数は次々に減っていきます。倒せどもやり過ごせども次から次へと現れて、行く手を阻む野伏。とても鎌倉までは辿りつけないと考えた六波羅の武士たちは、光厳天皇が見ている前で、切腹して果てました。天皇の心中はいかばかりであったでしょうか。やがて光厳天皇は捕えられて京に送られますが、新政権のトップに立った後醍醐天皇によって、その即位の事実自体が否定されてしまいます。

その後は、後醍醐天皇と敵対した足利尊氏に院宣を与えるなど、北朝方として歴史にかかわった光厳上皇。室町幕府の成立後は安定するかと思いきや、以前、大光明寺の時に書きましたが、南朝によって拉致されるという憂き目にもあってしまいます。光厳上皇は、南朝によって連れ去られた大和の地で出家を果たし、5年を経て京に戻った後も、俗世を離れて禅の修行に打ち込みます。やがて光厳上皇は、京都の北にある山深い常照皇寺に住み、静かな余生を過ごしました。

常照皇寺は、単に「桜が綺麗」だけでなく、光厳上皇のこうした波乱に満ちた人生を知ってから訪れると、また違った思いがよぎることでしょう。実は光厳天皇を幼少期から厳しく育てたのは、妙心寺を開いた花園上皇。禅に打ち込んだ精神にも、少なからぬ影響があったことでしょう。また、常照皇寺は天龍寺派の寺院です。光厳上皇が夢窓疎石に帰依していたことが関係しているかと思いますが、南朝方の後醍醐天皇を弔うためのお寺と、北朝の初代・光厳上皇ゆかりのお寺が関係しているのも、歴史の因果でしょうか。後醍醐天皇の墓は京都の南・吉野にあり、かたや北朝の光厳天皇の墓も、京都を北へ離れた常照皇寺にあって、桜の名所であることも似ています。太平記では、光厳上皇が南朝の後醍醐天皇の息子・後村上天皇と会う場面があり、史実と物語との境目は以外とあいまいなのかもしれません。

ちなみに、上皇は山国納豆ゆかりの人物としても知られます。常照皇寺で厳しい修行をしているのを見た村人が、稲藁を束ねて筒状にし、そこに煮豆を入れて献上しました。上皇が日をおいて煮豆を少しづつ食べていると、だんだんと糸を引くようになっていきます。せっかくの頂きものを粗末にはできないと、塩をかけて食べたところ味もよくなったそう。実は稲藁に納豆菌がいて、煮豆が納豆になったと考えられています。昔の納豆といえば、藁に包まれたイメージですが、その発祥はこの京北・山国ともされ、平安時代からあったとする伝承もあります。付近のお土産物屋では、昔ながらの藁に包まれた納豆も売られています。納豆好きの方は、本場の味をお土産にしてみてもよいかもしれません。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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