新日吉神宮の神幸祭


三十三間堂近くの東大路から通称・女坂と呼ばれる坂を登ると新日吉神宮(いまひえじんぐう)があります。ご祭神には、今年の大河ドラマ「平清盛」で松田翔太さんが演じる後白河天皇も祀られています。13日はこの新日吉神宮の神幸祭が行われ、神仏相混じった儀式や、剣鉾、お稚児さんの粽配りなどが見られました。

新日吉神宮は「神宮」と名がつきます。神宮と呼ばれるのは、天皇家やその祖先とされる神々を祀る神社です。京都では平安神宮に桓武天皇と孝明天皇が、白峯神宮に崇徳天皇と淳仁天皇が、そしてこの新日吉神宮には後白河天皇がお祀りされています。現在の三十三間堂や法住寺周辺には、後白河天皇が上皇となった後の御所・法住寺殿がかつてはあり、新日吉神宮はその守り(鎮守)として、都を守っていた近江の日吉大社の7柱の神々をお移しになったのが始まりです。神社はその後、応仁の乱で焼かれて衰えますが、豊臣家滅亡の後に近くにあった秀吉の墓が破却されると、その参道に登れないようにとの意味もこめて徳川家が新日吉神宮を再建し、立派な社殿を築きました。しかし神社内にはひそかに秀吉を祀ったとされる樹下社(このもとのやしろ)も残されています。秀吉の元の苗字は木下で、徳川全盛時代に密かに祀られたとされます。

さて、5月に行われる神幸祭は「小五月会(こさきのまつり)」とも呼ばれ、平安時代からの古い由緒を持つお祭りです。後白河上皇の子・二条天皇の時代には宮中で競馬(くらべうま)などが奉納されていました。その後、新日吉神宮の祭儀とされて、戦国のころまで300年間続きますが、いったん中絶。江戸時代の1655年になって復興されました。その後、350年以上にわたって連綿と続くお祭りです。

復興に際しては天台宗のお寺・妙法院の力添えも大きかったそうです。新日吉神宮の本社である日吉大社は、天台宗の本拠地・比叡山を古くから神域としていた神で、比叡山も古事記では日枝山(ひえさん:日吉山)と記載されています。後に、天台宗の開祖・最澄が後の延暦寺を開くにあたり、日吉大社を天台宗の守護神として崇敬しました。このようなつながりから、妙法院と新日吉神宮は関連が深く、現在でも神幸祭の神事では、祝詞や雅楽だけでなく、妙法院からのお坊さんによるお経が交互して、神仏習合の儀式を見ることができます。

儀式が終わると神幸列が出発します。行列の先頭を歩いて街を清める剣鉾は、平成22年に数十年ぶりに復興したもので、独特の澄んだ音色を響かせていました。神は尖ったものの先端や輝くもの、賑やかなものを好み、災厄をもたらす疫神を鉾は集めて通る場所を清めていくのです。ただ、現在は道を横切る電線が街には張り巡らされているため、剣鉾を振れる場所は限られているのが残念です。

また神幸列ではお稚児さんが厄除けの粽を配って歩きます。粽は祇園祭のものが圧倒的に有名ですが、京都のお祭りでは祇園祭以外でも見ることができます。このお稚児さんの中には2-3歳と思しき小さな子どもたちもいて本当にかわいらしい。中にはベビーカーに乗ってお休み中のお稚児さんもいました。少し大きな、元気なお稚児さんにはご家族の方がつきながら、お稚児さんは一本ずつ粽を手渡してくれます。お稚児さんそれぞれが、出会う方に一生懸命に配ってくれますので、何本も粽をいただく方もおられました。私も写真を撮りながらも2本いただきました。本当にほほえましい光景です。

新日吉神宮の氏子圏は結構広く、東は本社付近の山沿い、北は五条、西は河原町、南は今熊野の辺りまでと広範囲。お稚児さんたちも馬町の交差点を過ぎてどんどん歩いていかれました。きっと、街々に笑顔を配っていったことでしょう。神幸列には白幣付きの大きな榊の木もあって、道中で氏子の方々に木の枝を切って配っていきます。

また、軽トラックの上では鎧武者姿の男の子(稚児大将・児武者大将)が大人と一緒に粽を作り、こちらも配っていました。鎧武者の子どもの顔にはちゃんとお髭が描かれているのがユーモラス。神仏習合の儀式から、かわいらしい子どもたちが一生懸命にがんばる姿も見られるお祭りです。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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