ひっそりと残る保元の乱ゆかりの地


いよいよ27日放送予定の大河ドラマ平清盛では保元の乱が勃発します。今回はそのゆかりの地を簡単にご紹介します

保元の乱は、天皇家と摂関家のみならず、武士の源氏と平家も双方に血を分けて争った戦いです。鳥羽法皇が亡くなったのは1156年7月2日で、その僅か9日後、7月11日に保元の乱が勃発しました。この急激な世の動乱を目の当たりにした世間の人々の不安や驚きはさぞ大きかったことでしょう。あの将軍塚も鳴動したとされています。以下、俳優名も入れて記載しますが、大河ドラマのストーリーとは異なる点もあると思いますのでご容赦ください。

鳥羽法皇の死に目に会うことが叶わなかった崇徳上皇(井浦新さん)は、鳥羽離宮の田中殿にいました。しかしそこで行われた初七日法要には姿を見せず、世間には崇徳上皇と藤原頼長(山本耕史さん)とが手を組んで国家を転覆しようとしているとの噂が流れました。そして崇徳上皇は、田中殿を出て白河北殿へと入ります。後白河天皇(松田翔太さん)方に拘束される恐れを感じたからともいわれます。やがて白河北殿には藤原頼長も入り、源為義(小日向文世さん)や源為朝(橋本さとしさん)、平忠正(豊原功輔さん)らも白河北殿に集結しました。

一方の後白河天皇は、東三条殿から南の高松殿に入り、高松殿には平清盛(松山ケンイチさん)、源義朝(玉木宏さん)らが集まって、軍勢は天皇方の方が多かったといわれます。一方の白河北殿に集まった兵士は、御所の方々に分けてしまうと心もとない人数であったそう。さて、上皇方の軍議の場では源為朝が夜討ちを進言しますが、頼長は「なんと乱暴で分別の無いことか、天皇と上皇との国争いに夜討ちなどふさわしくない」と大反対してしまいます。一方の天皇方では源義朝が夜討ちを進言、天皇の参謀であった信西(阿部サダヲさん)は「敵の意表を付くのは肝要だ」としてそれを認めますが、武士の名誉である先陣は清盛に命じました。

天皇方の夜討ちに驚く上皇側。しかし上皇の御所を守る源為朝は、弓の強さが最強クラスの豪の者。清盛ら平家はその為朝のところへと攻めてしまい・・・、と物語は続いて行きますが今回は省略します。この日は西風が強く、義朝が白河北殿の風上に火を放ったことによって御所は煙に巻かれて炎上し、戦いは天皇方の勝利に終わりました。崇徳上皇は一時逃走しますが仁和寺に出頭して捕えられ、藤原頼長は奈良へと逃げる途中に首に矢が刺さるという悲劇に見舞われます。最期に父である忠実(ただざね:國村隼さん)に面会を願い出るも拒否をされて、翌日に亡くなりました。

上皇方についた武士、源為義や為朝、清盛の叔父・平忠正も捕えられました。信西は死罪を恐れて逃げていった者たちに、予め「誰それは流罪に処す」と触れを出して、命は助かると思わせて出頭させるという計略を働かせました。それまでの平安時代の長い慣例では、大罪人といえども死罪を減じて流罪にするのが通例だったのです。しかし信西はその慣例を気にせず、出頭した者を死罪に処しました。清盛は伯父の忠正を自分から斬らねば、義朝も父である為義を斬らずにすんでしまうとして、忠正を斬ったともいわれます。死刑の執行はおよそ350年ぶりで、それほどに異例なこと。叔父を斬った清盛、父を斬った義朝の心中はいかばかりであったのでしょうか。

崇徳上皇は讃岐に流されますが、荒れたさびしい場所で暮らすうちに都をどうしても恋しく思い、自分をこのような目に処した天皇を恨みながら、後生の菩提を弔うために自らの血を混ぜて3年かかって五部の大乗経を写経して、せめて都に奉納したいと願い出ます。ところが信西が不吉極まりないとして受け取りを拒否。これを聞いた上皇は激怒して、その後は髪も剃らず、爪も切らずに天狗のような風貌になり、やがては「日本国の大魔縁(悪魔)となり、皇を民となし 民を皇となさん」と言うや、自らの舌を噛み切ってその血で誓いの文言を書いたといわれます。このような話から、崇徳上皇が日本最強の怨霊ともいわれるのです。実際に江戸時代に至るまで武士の世が続き、その後の日本もご存じの通りです。恨みとは本当に恐ろしいものなのかもしれませんね。

さて、保元の乱ゆかりの史跡。清盛ら天皇方の武士が集まった高松殿の跡には、高松神明神社が立っています。崇徳天皇が当初いた田中殿跡は公園に石碑が立ち、戦いの舞台となった白河北殿は京都大学の熊野寮の付近で、丸太町通に面した一角には石碑が立っています。後白河天皇は崇徳上皇の思いを鎮めるため、白河北殿の跡地に神社を築いたとされますが、今は残っていません。かわりに(?)崇徳院地蔵からなまった「人食い地蔵」が聖護院の塔頭・積善院に残されています。

平忠正が処刑されたのは六条河原。現在の五条大橋から正面橋の南の西岸付近です。源為義は七条朱雀や船岡山で斬られたとされ、以前、源為義の墓をブログにも書きました。白峯神宮には崇徳上皇が祀られており、その境内に立つ伴緒社(とものおしゃ)には、上皇に味方した人物として為義と為朝が祀られています。武道・弓道上達の神として信仰され、11月15日の例祭では、お弓奉射神事が行われます。.他には祇園近くの縁切り縁結びで知られる安井金毘羅宮にも崇徳上皇が祀られており、祇園には崇徳廟も残されています。大河ドラマを見てから現地を訪れてみるとまた感慨がわくかもしれません。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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