先週の日曜日、20日には嵐山の大堰川(保津川)で三船祭が行われました。20隻ほどもの芸能船が浮かび、平安の雅な船遊びが再現されるお祭りです。
嵐山・嵯峨野の一帯は平安初期から離宮が築かれた風光明媚な場所として知られ、平安時代の宇多上皇以降、皇族や貴族たちは船を浮かべて船遊びを楽しみました。保津川は急流で知られる川。そんなところで平安時代に船遊びが出来たのかという疑問を持たれる方もいるかもしれません。現在は昭和24年に築かれた堰があって船溜りのようになっていますが、実はこのような堰(葛野大堰)は平安時代以前から存在していたと考えられています。一帯は渡来系の一族・秦氏の勢力圏で、彼らが大陸から持ち込んだ土木技術によって川には堰が設けられ、そこから農地に水を引いていたのです。その副産物として堰の上流は川の流れが緩やかとなって、上流から筏を組んで流す材木の積み下ろし場としても使われ、さらには平安貴族の船遊びの場としても活用されました。
平安貴族で最も名が知られているのが、藤原道長。摂関政治の全盛時代を築いた人物として有名な道長も、大堰川で船遊びを行いました。漢詩・和歌・管弦の三隻の船に分け、それぞれに名人が乗り込んで才を競います。参列した貴族の一人には諸芸に秀でた藤原公任(きんとう)という方がいました。道長からどの船に乗るかと尋ねられた公任は、和歌の船に乗り込みます。そして「小倉山 嵐の風の寒ければ もみぢの錦 きぬ人ぞなき」と、掛け言葉も織り交ぜた見事な和歌を詠んで称賛されるのですが、なぜか悔しがる公任。漢詩の船に乗っていればもっと名声が上がっただろうにと。実は、道長に乗る船を聞かれた際、どの船に乗っても活躍ができる自分の才を認めてくれていると自惚れて、深く考えずに和歌の船に乗り込んでしまったのだそう。彼の和歌は、百人一首や京都検定でも紹介される、大覚寺・大沢池「名古曽(なこそ)の滝」を詠んだ「滝の音は たえて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」も有名です。
さて、現代の三船祭は車折(くるまざき)神社の祭礼として昭和3年から開催されています。車折神社のご祭神は清原頼業(よりなり)で、昭和天皇の即位を記念して、清原頼業の生きた平安時代の船遊びを再現しました。船の一隻一隻には、今様船や俳諧船、長唄船などなど、現代のその道に通じた方々が乗り込んでおられます。中でも注目を浴びるのが、御祭神が乗り込む御座船、そして管弦楽の迦陵頻(かりょうびん)で胡蝶の舞を披露する龍頭船、お茶席の鷁首(げきす)船、扇を流す扇流船でしょう。
龍頭船は龍の頭がついた船で、神泉苑でもおなじみ。鷁首(げきす)船も鵜に似た白い水鳥「鷁(げき)」がついた船です。鷁(げき)は、想像上の鳥ですが風に逆らって飛ぶことが出来るとされ、航海の安全祈願の鳥として、祇園祭の船鉾でも金色の立派な鷁が乗っています。いずれにしても龍頭船と鷁首船は目立つユニークな船ですね。龍頭船で披露される舞は優雅で趣があります。昨年は私のいた岸のすぐ目の前に龍頭船がやってきて、じっくりと舞を眺めることが出来ました。改めて動画を載せておきます。
船が並ぶ姿は優雅ですが、一方で一般の貸しボートがこの日も禁止にはならず、眺める側からすると水を差す光景ではあるでしょう。昭和30年代の古い京都本にもボートの話が「行列に入っていくのは遠慮してほしい」と書かれていますので、相当前からの光景のようです。ボート客からすれば目の前で見ることが出来る特等席ではありますし、単にボート乗り場まで帰りたいだけかもしれませんが、船にぶつかりそうになるほど近づくのは、安全のためにもご遠慮願えればと思います。なお、昨年のように川の水かさが多い年にはボートが出ないことがあります。
さて、こうした優雅な船遊びは2時間ほど続きますので、移動しながらご覧になるのもよいでしょう。船遊びが終わると、船に乗っていた人々は北側の岸から陸に上がり、御座船の神も同様に陸に上がって、少し歩いて頓宮へと入ります。この時には舞を舞った少女たちも陸に上がって付き従います。こちらも風情のある光景ですので、機会がありましたらご覧になってみて下さい。
ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)
気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。