六道珍皇寺の六道まいり


7日から六道珍皇寺で六道まいりが始まりました。先祖を迎える迎え鐘の音が辺りには響いています。

京都もお盆の行事が始まりました。お盆は先祖のお精霊を迎える時期。まずは迎え鐘を撞いて霊を呼びます。六道珍皇寺の入口では高野槙(こうやまき)が売られ、この高野槙に精霊は宿って自宅に帰るとされます。高野槙は古墳時代前期の木棺としてもよく使われ、後にヒノキにとって代わられるものの、古くからこの世とあの世を繋ぐ木として信じられていたのかもしれません。六道珍皇寺では小野篁が閻魔庁へと行く際に使ったとされる井戸の脇にも高野槇があり、篁はその枝をつたって井戸に入ったとされます。なお、お精霊迎えの風習は宗派によって少し異なり、私の手元の古書では、日蓮宗は他宗に先んじて8日のうちに精霊迎えを行うことが多いそうです。また、浄土宗や浄土真宗では精霊を自宅には迎えず、墓参りを13日~15日の間に行うそうです。

さて、六道珍皇寺の迎え鐘は、ひとりでに鳴る(はずだった)鐘として知られます。六道珍皇寺(愛宕寺)を創建した慶俊というお坊さんが、中国へ行く前に鐘を土に埋め、弟子たちに「この鐘は不思議な鐘で、3年間土中に埋めておけば六時になればひとりでに鳴る鐘になる」と告げて旅立って行きました。そこから1年半ほど経て、中国にいる慶俊のもとに不意に鐘の音が聞こえてきました。その音はまさしく、出発前に土に埋めたはずの鐘の音色。弟子たちは3年待てずに掘り出してしまったのです。こうしてひとりでに鳴る鐘とはならなかったのですが、中国まで聞こえる鐘ならば、きっと「あの世」にまで聞こえるはずということで、お精霊迎えの「迎え鐘」となりました。

ただ、残念ながらその元祖の迎え鐘は明治の初めに盗まれていて、現在の鐘は明治の終わりに再建されたものです。鐘の下には甕が埋められており、音がよく響くように作られています。ちなみにこの慶俊というお坊さんは、空海の師でもあり、鷹峯にあった愛宕の神を現在の愛宕山に遷した人物。京都の個々の社寺の知識がこうして、点ではなく線や面で繋がるようになると、どんどん面白くなっていきますね。また、慶俊は六道珍皇寺だけではなく、愛宕念仏寺も創建しています。二つの寺は元は一つの寺・愛宕寺であったと考えられていますが、「愛宕」という名が愛宕神社と共通しているのもまた面白いところです。古来の郡制では一帯は愛宕(おたぎ)郡で、愛宕寺という名は単に地名を取っただけと考えられています。

話がそれました。六道まいりの「六道」とは、天上・人間・地獄・餓鬼・修羅・畜生の六つの世界のことで、人は亡くなると基本的にはこの六つの世界に行くとされました。これを六道輪廻といいます。それぞれの世界にはそれぞれの苦しみがあり、一つとして穏やかに暮らせる世界はありません。その輪廻の輪から抜け出て、苦しみの無い極楽浄土の世界へと行くことを多くの人々が願ったのが浄土思想。しかし法然が浄土宗を広めるまでは、極楽浄土へ行くためには厳しい修行をしたり、寺を創建したり多額の寄付をせねばならないとされ、日々の生活に追われる庶民は永遠に苦しみのある六道を回らねばならないと考えられていました。そして六道珍皇寺のあるこの一帯は京都の葬送地、鳥辺野の地。まさに死して六道へと向かう分かれ道「六道の辻」であったのです。

六道珍皇寺の迎え鐘を撞くための行列は、長く長く八坂通まで伸びています。それだけ今でも信仰の力が強いということでしょう。六道珍皇寺の境内はいつもとは全く違った空間になっていて、まさにこの世とあの世を繋ぐ場所にふさわしい雰囲気です。あの世を行き来した小野篁の大きな像や、閻魔像も大きく扉を開けて公開されますし、最澄作とされる端正なお顔の薬師如来座像(重要文化財・旧本尊)も直接拝むことが出来ます。地獄絵の公開もあって、まさに非日常の空間。お精霊迎えではなくとも、一見の価値がある期間です。行事は10日まで行われています。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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