八坂神社の石鳥居


今回は八坂神社の南門出口に立つ石鳥居のお話です。

実は最近この石鳥居の前に立つことが多く、しげしげと見つめながら一度詳しく調べてブログに書こうと思いました(笑)突然ですが、八坂神社の正門はといえば、鳥居のある側、南(楼)門です。ほとんどの方が四条通に面した西(楼)門から入っていきますが、そちらはいわば裏口の様な門です。その証拠に本殿から見て正面にあるのが南門。祇園祭の儀式やお神輿の出入りは今でもこの南門から行われており、鳥居も西門側にはありません。

その南門に立つ石鳥居。正保3年(1646年)の建造、高さは9.5mで、自然石で作られた鳥居としては日本最大級といわれています。これ以上大きな鳥居はコンクリートか木で建てられます。鳥居をじっくりと眺めてみると、切れ目があることに気が付きます。ひと固まりの石の大きさも4~5mはありそうです。これだけの大きさの石を探して加工し、運び、クレーンもない時代に積み上げるのですから、かなりの労力。きっと多くの人々の力で築かれたのでしょう。

扁額を注目してみると「八坂神社」となっています。八坂神社は江戸時代の神仏習合下では「祇園感神院」と呼ばれており、地名を取って八坂神社となったのは明治以降のこと。当然、この扁額は明治以降のものとなります。調べてみると、この八坂神社の文字を書いたのは有栖川宮熾仁(たるひと)親王だそうです。有栖川宮熾仁親王は、幕末の悲劇のヒロイン和宮の婚約相手として知られます。和宮との婚約を破棄され、和宮は14代将軍家茂の奥方になるべく、江戸へと下って行きます。やがて激動の時代を経て新政府が樹立されると、熾仁親王は幕府を打つ軍の総大将(征東大総督)として江戸へと赴くことになるのです。

さて、八坂神社の石鳥居は見事な自然石の鳥居ですが、実は江戸時代の1662年に京都を襲った地震で倒壊したことがあります。これほどの大きな石鳥居が崩れてきたらと想像すると恐ろしい限りですが、実はこの時の震源地は近江から若狭の辺りで、若狭湾周辺や花折断層北部の活断層によってもたらされました。研究によると大津の低地で震度6。同じく山間部で震度5~6と推定され、彦根では城の石垣が崩壊、城下町では1000軒を超える家々が倒壊したといわれます。京都では、八坂神社石鳥居の崩壊だけでなく様々な被害が生じました。方広寺の大仏は肩から裂けて修復困難となり、ついには寛永通宝というお金の材料とされてしまいます。五条大橋では橋の板が落下、通行人が鴨川に落ちました。

一方で八坂の塔(1440年建造)は無傷だったようで、塔が地震に強いことが証明されています。現代のスカイツリーも塔の技術を参考にした「心柱」を持っていますが、古に発明された素晴らしい建築技法ですね。1662年の地震では他にも多くの石灯籠が倒壊。下御霊神社では子どもが下敷きになって亡くなりました。現在も京都には多くの灯篭や鳥居、それに土壁が立っていますが、地震の時には非常に危険ですので真っ先に離れて下さい。

八坂神社の石鳥居は、その後1666年に補修再建され、現在は重要文化財として八坂神社の正門にふさわしい威容を誇っています。石鳥居から続く門前道は下河原通。明治までは遊郭もあった通りで、辺りにはその名残で旅館や料亭が多くあります。現在は、修学旅行で泊りに来る学生さんたちを見かけることもあり、京都らしい風情を感じられる場所に泊れることはよい思い出にもなるでしょう。石鳥居と南門との間には、二軒茶屋の中村楼があります。400年以上も続く老舗として名を馳せ、木の芽が交じった白味噌がつけられた豆腐田楽は、今も昔も門前名物。砂糖が貴重だった時代に、白味噌の甘みが喜ばれました。かつては店の前で豆腐を切る早技が人々の注目を集めていたそう。石鳥居を眺めながら豆腐田楽を頂けば、気分は江戸時代に遡れそうですね。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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