粟田祭 剣鉾と大燈呂の巡行


8日は、粟田祭神幸祭が行われ、剣鉾差しや神幸列には大燈呂(だいとうろう)も加わりました。

今年の粟田祭では、石見神楽夜渡り神事などを見てきました。その様子は先日までのブログをご覧ください。祭りの本番は8日に行われた神幸祭です。粟田祭は千年の歴史を持ち、特に剣鉾が知られ、室町時代に祇園祭が催行できなかった年は粟田祭をもって祇園祭の代わりとしたとされるほどです。なぜならば、粟田神社の御祭神は祇園祭を行う八坂神社の神々と同じで、神社の由緒は下記のように伝わっています。

平安時代の清和天皇の時、都に疫病が流行った際に、天皇の使いが八坂神社に7日間こもって国家と民の安全を祈祷すると、その7日目の夜、夢の中に老人が立ちました。その老人は「私はオオナムチ(大国主命)である。祇園の東北に牛頭天王にゆかりの地があるので、その地に私を祀れば、必ず国家と民衆は安全である。」と告げて消えました。そうしたお告げから、粟田神社の社を整備して八坂神社の御祭神で牛頭天王と同一視されたスサノオとその妻・クシナダヒメ、お告げに現れたオオナムチを祀り、厄除けの神として信仰されるようになりました(牛頭天王は疫病を司ると信じられた)。また、粟田神社は八坂神社の旧名・祇園感神院と対応して、「感神院新宮」と呼ばれていました。このように、粟田祭が祇園祭の代わりとなるのは必然であったと言えるでしょう。

余談ですが、粟田神社の前は旧東海道で、旅立ち守護の神社としても信仰を集めました。御祭神の一人であるオオナムチは、ダイコク様で知られる大国主命(オオクニヌシノミコト)の若い時のお名前で、全国を旅をして苦難にあいながらも無事に旅を成し遂げたと日本神話には書かれています。こうした由緒から旅立ち守護の神社となっていったと考えられます。

さて、神幸祭に登場する剣鉾は高さが約8m、重さ約60kgで、重心が上にあるため持ちあげるのも非常に難しく、まさに名人芸。剣の下部には鐘が付いており、鉾を揺らすことで澄んだ音が響き渡ります。剣鉾は厄払いのための道具で、疫病を広める疫神(えきじん)は、剣鉾の輝きや尖った鉾先、澄んだ鐘の音に引き寄せられて剣鉾に集まるとされ、それによって神輿の巡行路が清められていきます。祇園祭の山鉾も剣鉾と同様の役割を持ち、輝く尖った鉾頭、鐘のかわりにお囃子が乗っています。

この日は秋らしく高い空に筋雲が浮かび、剣鉾の輝きと澄んだ音がひと際鮮やかだったように感じます。都ホテルからの三条通は電線がなくて見晴らしもよく、剣鉾差しを見るにはよい場所です。また青蓮院の辺りはクスノキが枝を伸ばしているために、その合間を縫って鉾差しを行っていきます。

また神幸列には大燈呂も加わります。前の晩の世渡り神事では明かりのついた幻想的な姿でしたが、こうして昼間に見るのもよいものです。巡行は学生さんたちによって行われ、京都造形芸術大学の学生による伝統行事として今後も続いて行くことでしょう。大燈呂や剣鉾は白川沿いも進んでいきました。柳が下がる川沿いの道を通る様子もなかなか絵になる見学スポットですね。さて、粟田祭の紹介は次回もう一回続きます。神輿が青蓮院へと入る勇壮な場面をご紹介します。


ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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