八瀬の赦免地踊 幻想的な燈籠と歌声


7日の夜に八瀬赦免地踊(しゃめんちおどり)が行われました。写真だけでは伝わりきらないこのお祭りを、動画でもご紹介します。

赦免地踊は、江戸時代に延暦寺との争論に勝つことが出来た感謝の気持ちを表したお祭りです。八瀬の里と延暦寺との争いの経緯などについては、先日書いたブログをご覧ください。今回は実際の踊りの紹介です。この赦免地踊は写真と私の拙い文章だけでお伝えするのは難しく、是非、動画も合わせてご覧ください。

赦免地踊で知られるのは燈籠着(とろき)と呼ばれる女装した中学生が、頭に切り子の装飾がある燈籠を乗せて歩く姿です。口に紅をさし、美しい女性の着物を男性が着る姿は、室町時代の風流踊を伝えています。風流踊は燈籠踊とも呼ばれ、青年(少年)の女装や切り子燈籠は当時から変わっていないものだそう。「風流(ふりゅう)」とは華やかな意匠を表す言葉ですが、華やかさの中には奇抜さを含み、赦免地踊でも女装をする奇抜さに着物の華やかさが合わさる様子はまさに「風流」といえます。京都では洛北にこうした「風流」を伝える燈籠踊が残り、久多の花笠踊でもかつては花笠燈籠を少年が頭にのせていたそうです。

赦免地踊の美しい切り子燈籠は、八瀬の4つの町が2基ずつ1対、計8基を作成します。赤紙の透かし彫りの燈籠は図柄が細かい見事な作りで、制作にはおよそ半年ほどかかり、日ごろからの鍛錬がなければ出来ないものだそうです。彫人は1対につき16名を要するのだとか。燈籠の重さはおよそ5kgあるそうで、少年が一人で頭に乗せて歩くのは難しく、それぞれに補助が1名付いて歩いて行きます。

八瀬の各町内に待機する燈籠着たちは、伊勢音頭の道歌(みちうた)に包まれながら八瀬の里の中心地(現在は八瀬小学校付近)に集まってきます。道歌の意味を調べていみましたが、道徳的な内容を盛り込んだ歌を「道歌(どうか)」と呼ぶので、そこから来ているのかもしれません。歌の歌詞には「燈籠の用意も出来上がり」など、物語性があるようです。燈籠のほのかな明かりに心地よい歌声が響き、とても味わいのある道中でした。

各町内から燈籠着や、少女の踊り子らも集まると、祭りを取り仕切る「頭(かしら)」によって確認されます。このやりとりも昔ながらの決まり文句によって行われ、確認が済むと、いよいよ秋元神社のある八瀬天満宮へと一行が進んでいきます。天満宮の参道にある階段のところまで来ると、境内には歌が響き、ゆっくりゆっくりと歩みを進めていきます。暗闇の中、燈籠の明かりと美しい歌が響く様子はとても幻想的です。この階段での道中はフラッシュでの写真撮影は禁止されていましたが、それでもフラッシュを使う方がいて少し残念でした。まずはここまでの幻想的な様子を動画でご覧ください。

一行は境内に入ると、赦免地踊を見に来た観客たちの周りを燈籠が回り、その後、一旦燈籠は置かれます。そして舞台の上では少女の踊り子たちによる可愛らしい踊りなどが披露されていきます。この少女たちは12~13歳だそうで、赤い衣装に紅をさし非常に可愛らしく、一生懸命に練習してきたであろう踊りを見せてくれます。演目は汐汲踊、狩場踊と決まっているようです。また踊りの合間には余興として、南京玉すだれなどの奉納もあって、こうして踊りと踊りの合間に入る演目は俄狂言のように祭りの古い形式を伝えているものといわれます。

燈籠を乗せた燈籠着の少年たちが観客の周りを歩く燈籠回しも2回行われます。踊りは音頭取りによる歌によってとても幻想的に行われ、踊りの始めには、つど「さらば音頭取り、例年の通り・・・」といった指示が頭(かしら)から入るなど、祭りの進行も伝統に則って行われているようです。それにしても踊りを彩る歌が見事。小さな頃からこの音色に親しみ、日頃から練習をしてこの歌声が守られているのでしょう。

さて、最後の燈籠回しでは、しだいに歌や太鼓のテンポが速くなり、「いざや帰らん 我が宿へ帰らん 燈籠着 狩場踊 これまでよ」(歌詞は私の推定)との歌声の後、燈籠着たちがそのまま天満宮の階段を下りて行って祭りが終わります。燈籠が闇の中で小さくなっていく様はきっと今も昔も変わりがないに違いありません。さて、境内での赦免地踊の動画も用意しました。どこか懐かしさも感じるお祭りの雰囲気です。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

より大きな地図で 八瀬天満宮 を表示

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