会津若松 復元された藩校・日新館


前回からブログの番外編としてお届けしている、会津若松の史跡。今回は、復元された藩校・日新館です。

大河ドラマ「八重の桜」の中でも美しい佇まいが印象的だった藩校・日新館。会津若松の街中には天文台跡が残されてはいますが、実際の日新館は戊辰戦争の折りに焼失してしまいました。ただ、詳しい図面などの資料が残されていたため、昭和62年(1987年)に、元のままに完全復興されたのが現在の日新館です。

復元された場所は会津若松市街地から北へ8kmほど。旅行者が行く場合は、基本的には自家用車かレンタカーが望ましい場所で、本数は少ないですが会津若松市街地からバスがあります。あるいは最寄駅のJR磐越西線・広田駅から徒歩でも行くことができます。ただ、磐越西線も都会の感覚では驚くほど本数が少ない(昼間は2~3時間に1本のこともある)ので、よく時刻表などを見て、計画的に行く必要があります。十分にご注意ください。

復元された日新館は高台にあって、駐車場からは会津の広大な景色を望むことができます。冬は一面の雪景色になりますので、こうして広々とした白の世界も私には見慣れない風景でした。日新館の広い駐車場から少し階段を上がると、八重の桜のロケでも使われた印象的な門が現れます。テレビで見た通りの美しさです。館内も一面雪が積もっていましたが、実際に少年たちが学んでいた時もこのような景色の時もあったのでしょう。

日新館は、江戸時代の1803年に創建されました。「教育は百年の計にして 会津藩の興隆は人材の育成にあり」と、藩校の創設を進言した家老・田中玄宰(はるなか)は述べています。会津藩士の子弟は10歳になると日新館に入学し、様々なことを学びました。生徒数は1000人~1300人もおり、現在の都会の大きな学校並みと言えるでしょう。それだけに、日新館の敷地はかなりの広さを持っています。

会津の子どもたちは「什の掟(じゅうのおきて)」というものを、日新館に入る前からしつけられていました。什とは10人1組のグループのことを言うそうですが、実際には10人でないこともよくあったそうです。「ならぬことは ならぬものです」は印象的な言葉ですね。会津の市内各地にも、その言葉が掲げられ、現代も形を変えてその精神が生きています。

什の掟にそむいたものには罰があって、軽い罰の中には「しっぺ」もあります。「八重の桜」の第1話で、八重が木から落ちて追鳥狩(おいとりがり)を妨げ、西郷頼母(西田敏行さん)に激怒された時に、藩主の松平容保(綾野剛さん)のはからいで罰が「しっぺ」になったのも、ここから来ているのでしょう。日新館に入った後も、少年たちには数々の心得が教えられ、礼儀正しく義理がたい、会津人の気風が養われていきました。

さて、日新館には日本最初のプールとも言われる、水連水場池があります。結構な広さがある池でした。ただ、さすがに冬の間は凍りついていました。雪国は何かと苦労が伴いますね。日新館の中では、弓や砲術なども学べ、馬術はまず木馬を使って練習をしました。一方、医学や天文学、書学などの座学も充実していて、子どもたちが学ぶ様子が人形で再現されています。白虎隊もここで学んだとのことで、人形には隊士の名前が書かれていました。

印象的だったのは、切腹の仕方もちゃんと教わっていたこと。恐らく現代人の感覚では理解が難しいのでしょうが、天下太平の世といえどもこのように教わっていたからこそ、白虎隊は切腹して果てたのです。日新館は白虎隊に力を入れて紹介している印象ですが、他にも会津戦争の全責任を一人で背負って亡くなった萱野権兵衛の話や、その息子・郡長政の、涙なしでは読めない母への手紙とその結末など、心に響く会津の話を数々知ることができます。

日新館は、その美しい佇まいや、江戸時代そのものの雰囲気を味わえ、鶴ヶ城と並んでおススメの場所です。やや行きにくいのが難点ですが、会津を訪れる際には是非、見学コースに入れてみて下さい。次回は、飯盛山の白虎隊関連の史跡をご紹介予定です。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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