会津若松 悲惨な会津戦争と白虎隊が眠る飯盛山


前回・前々回と、番外編としてお届けしている会津若松の史跡。今回は、飯盛山に眠る白虎隊ゆかりの史跡をご紹介します。

会津と言えば鶴ヶ城と並んで名前が挙がるのが白虎隊です。飯盛山で自決した若き少年たちの悲劇は、時代を越えて胸に響くものがあります。会津戦争は、官軍である新政府軍と、旧体制側の賊軍である会津軍という構図で、最新式の軍備と圧倒的な軍勢を備えた新政府軍によって、会津の方々にとっては非常に厳しい戦いとなりました。恭順の意思を示しながらも、攻められてしまう会津。白虎隊の他にも涙なしでは語れない話が、会津の街のそこかしこに伝えられています。

会津藩では新政府軍の進行に備えて年齢別の軍を整備し、それぞれに中国の四神になぞらえて、玄武隊(50歳から56歳)、青龍隊(36歳から49歳)、朱雀隊(18歳から35歳)、白虎隊(主に16歳から17歳)の名をつけました。ただ、年若き将来のある白虎隊はあくまで予備兵力として、鶴ヶ城下の警護をになっていました。新政府軍が迫り、会津軍はまず国の出入り口である関所を固めますが、内陸国である会津への進入路は非常に多かったため、兵力が分散、母成峠では、会津軍800人に対し新政府軍3000人と戦力差は明白。ついに攻めきられてしまいます。

次にポイントとなったのが、会津若松へと通じる要所の十六橋。この橋は、猪苗代湖から流れ出る唯一の川・日橋川に架かっていて、会津軍はこの橋を破壊しようとしました。日橋川は流れが速いため、橋を壊せば容易に渡ることができず、時間が稼げるのです。しかし、新政府軍の進行は迅速で、かつ橋も強固であったため、橋を破壊する前に突破されてしまいました。

十六橋を越えられると、若松を攻められるのも時間の問題。各々がいわゆる玉砕の意思を固め、ここに至って、白虎隊も戦禍の前線・戸ノ口原に出撃することとなります。白虎隊の士中二番隊は、前線に急行するため、食物などの携帯品を置いていったと伝わります(これが後に彼らを心身ともに追いつめる)。会津軍は徹底抗戦しますが、装備や数の差はいかんともしがたく、白虎隊も苦戦を強いられます。夜になって雨が降りだすと、白虎隊は身動きが取れず体力も奪われていきました。食料も無く、敵の襲撃を警戒して睡眠もとれません。

翌朝も激しい攻撃を受け、隊士はついに撤退を決意します。しかし、退却先の滝沢本陣はすでに敵に囲まれていたため、鶴ヶ城へと行き先を変更し、飯盛山を目指しました。道なき山中を進むうちに隊はばらばらになり、重傷人も出る厳しさの中、なんとか用水のトンネルを抜け、飯盛山の高台へとたどり着きます。そこで彼らが見たものは・・・、炎に包まれる城下の街だったのです。すでに敵は城下に侵入し、城が燃えていると考えたとも言われています。戻る場所を見失い、戦いに疲れ果てた白虎隊の隊士たちは、次々に悲劇的な死を遂げていきました。

城下でも激しい戦いが繰り広げられ、長命寺には今でも弾丸の跡が生々しく残っています。最終的に鶴ヶ城に籠城した会津軍。八重らの奮戦も空しく、1か月後に降伏することとなります。白虎隊士を始め、城下には多くの亡骸があったものの、新政府軍の命令で手をつけることが許されず、非常に凄惨な状況となったそうです。度重なる嘆願の末、数か月を経てようやく埋葬を許され、阿弥陀寺と長命寺におよそ1450名の亡骸が埋葬されました。

白虎隊士の亡骸は、3ヶ月間放置された後、村人によって密かに近くの妙国寺に仮埋葬され、後に現在の飯盛山の地に改葬されました。今のような墓の形になったのは明治23年のことです。悲惨な会津戦争の象徴として、今でも多くの方が墓を訪れ、手を合わせます。白虎隊の墓には、明治の世になって訪れた、元藩主・松平容保による歌碑が建てられています。「幾人の涙は石にそそぐとも その名は世々に 朽じとぞ思う」。まさに白虎隊の名は、この先も朽ちることはないでしょう。

さて、冬は飯盛山の墓も雪と氷に包まれますので、やはり春の雪解け以降に訪れる方が安全です。私は何度か階段で滑り、怖い思いをしました。飯盛山では、白虎隊が見たであろうスケールで鶴ヶ城下の街を望むことができます。城ははるかに小さく、城下が燃えていると、確かに城が燃えているようにも見えてしまったかもしれません。

飯盛山への登り口に白虎隊祈念館があり、その脇に一見、犬と戯れているかのような白虎隊士の像があります。飯盛山を目指す途中に他の隊員とはぐれてしまった酒井峰冶です。彼も疲れ果てて、一人で自陣をしようと刀を抜きますが、その時、偶然通りかかった農夫に止められます。その後、さらに奇跡が続き、山道を歩き出した酒井に一頭の犬が駆け寄ってきました。なんと、自分がかわいがっていた愛犬・クマだったのです。これによって生きる思いを取り戻し、彼は鶴ヶ城に入ることができました。是非、この像にも思いを馳せてみて下さい。

会津戦争の悲惨さを伝えるものが、市内には数多く残されています。新政府軍が会津城下へと攻め入ることが決定的となった際、女性たちは、足手まといにならぬよう、迷惑をかけぬようにと多くが自刃して果てました。西郷頼母の妻・千重子やその家族も次々に自刃し、頼母の悲しみはいかばかりだったであろうかと、考えるだけで辛くなります。善龍寺には、千重子の辞世の句、「なよたけの 風にまかする身ながらも たわまぬ節は ありとこそきけ」が刻まれた「なよたけ(奈与竹)の碑」が立ち、戊辰戦争で自ら命を絶った200名以上の婦女子の名が刻まれています。

会津の戦いでは、あの新撰組も活躍しました。土方歳三や斎藤一などが活躍し、史跡や伝説も残されています。阿弥陀寺には斎藤一の墓があり、天寧寺には近藤勇の墓も作られています。それだけ旧幕府方にとって象徴的な戦いが会津戦争だったのでしょう。会津戦争の敗北によって藩は解体され、残った藩士たちは環境条件の厳しい青森の下北半島や、北海道南部へと新たに移住することになります。

会津の史跡を回ると、必ず会津戦争の話が出てくるでしょう。日本が第二次世界大戦で悲惨な戦争体験をし、そのモニュメントを残し伝えようとしているように、会津の国も幕末の悲惨な戦いを伝えようとしています。歴史は勝者にばかり光が当たりがちですが、その陰があることもまた歴史の事実。今回、私も訪れるまで知らなかったことばかりで、ずいぶんと心に響くものがありました。皆様も訪れる機会がありましたら、是非、じっくりと訪ねてみてください。

余談ですが、白虎隊が仮埋葬された妙国寺は、日蓮宗の僧・日什(にちじゅう)の生没地になります。日什といえば!京都で妙満寺を創建したお坊さんです。つい先日、妙満寺で雪に包まれた「雪の庭」を眺めてきたばかりでしたので、不思議な偶然を感じました。考えてみると、日什の「什」は、会津の少年が教わる「什の掟」の「什」と同じ漢字です。日什の生きた室町時代にすでに「什の掟」があったのかは分かりませんが、会津人として日什は京都にやってきたのでしょう。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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