高山寺 石水院からの雪景色


昨日お届けした神護寺の雪化粧。神護寺を後にした私は、西明寺を経て世界遺産の高山寺へと足を延ばしてきました。

高山寺は「古都京都の文化財」として登録されている17か所の世界遺産の中では、行きにくい部類に入るお寺です。この時の世界遺産の申請対象は「国宝建造物」か「特別名勝庭園」のどちらかを有する社寺でした。つまり、現在の17の世界遺産には、必ずこのどちらかがあります。高山寺にあるのは、国宝建造物の方で、後鳥羽上皇が明恵上人に与えた石水院が残されています。

高山寺は、平安遷都前に光仁天皇の命によって創建されたお寺で、元は度賀尾(とがのお)寺と呼ばれていました。度賀尾寺の時代には、道真の師として京都検定では水火天満宮の登天石でも知られる、法性坊尊意(ほっしょうぼう そんい)が11歳から4年間修業をしたこともあります。その後、度賀尾寺は衰えますが、神護寺を復興した文覚上人によって神護寺の別所となり、そして明恵上人が後鳥羽上皇や各摂関家からの援助を得て、華厳宗の寺・高山寺として再興しました。

明恵上人は幼くして両親を亡くした苦労人。母方の祖父を頼って神護寺で学び、16歳で出家をして、東大寺や仁和寺、建仁寺でも学び、臨済宗の創始者・栄西とも交流がありました。各宗派を極めながらも特定の宗派や教義にとらわれず、権力から距離を置き、仏の母(自らの母代わり)とも言える、仏眼仏母を終生信仰し続けた明恵上人。仏眼仏母図の前で自らの耳を切り落としたように、その心には深い闇もあったのかもしれません。「明恵上人樹上座禅図」も非常に有名ですが、目を閉じ瞑想するその姿はまるで夢を見ているようです。19歳から59歳までの40年にわたって記した「夢記」はそうした瞑想の延長として記されたのかもしれませんね。

このように世俗を離れた一面もある一方で、明恵上人はハンサムで女性に人気があったといわれています。高山寺に伝わる像にも女性的なものがあり、善妙神像や白光神像は、美しい女性の像。石水院で印象的な犬の像は、明恵上人遺愛の像と伝えられています。明恵上人は動物を見ても父母の生まれ変わりではないかと思い、子犬をまたいでしまった後に立ち返って拝んだという逸話も残されています。

また、上人は松茸が好物だったといわれ、ある人物がそのことを伝え聞き、上人を招いた席にたくさんの松茸を用意しました。後に「上人に喜んで頂こうと、あちこちから集めたのだ」と伝え聞いた明恵上人は、ひどく恥じて以後松茸を口にしなくなったということです。明恵は、高山寺の生活規則を細かく定め、それを「阿留辺畿夜宇和(あるべきやうわ)」と題しています。その定めの内容を見ると、睡眠時間は4時間、食事は昼の1回となかなか厳しく、「あるべきよう」になるのは、なかなか大変でした。

さて、石水院は後鳥羽上皇の元学問所で、明恵上人時代の唯一の遺構。上人が住んだ場所でもあります。もとは今よりさらに上の金堂の東にありましたが、明治22年に現在地に移築されました。建物は改築された部分も多いとされますが、鎌倉時代初期の数少ない建造物として国宝に指定され、堂内に置かれた善財童子像が印象的です。

そして石水院では、鳥獣戯画を筆頭とする数々の寺宝もじっくりと見て頂きたいのですが、まず目を引くのが山々の絶景。紅葉の時期は特に美しく、多くのファンがいる景色です。この日の雪景色はすでに終盤でしたが、まだ間に合いました。美しい雪の山並みを額縁のように眺め、しばし落ち着いた時間を過ごさせて頂きました。山寺はこうした自然の雄大な美しさを堪能できますね。

書き忘れましたが、高山寺の前に西明寺にも寄っていました。西明寺への赤い指月橋は白い雪によく似合い、燈籠が立ち並ぶ境内も雪が趣を添えます。紅葉時期とは違って境内は静寂に包まれ、都から遠く離れた場所へと着たような気持ちになりました。以上、雪の三尾も期待通りの美しさでした。今シーズンもまだ数回はチャンスがあるかと思いますので、機会がありましたら、早朝に足を延ばしてみて下さい。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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