銀閣寺の雪化粧


17日の朝は洛北を中心に雪化粧となり、朝一番で銀閣寺に足を運んできました。

銀閣寺は京都でも有数の雪化粧が似合うお寺ではないかと思います。雪は辺りを白く覆って色彩が抑えられるため、神社のような朱色が鮮やかな場所がひときわ映えますが、銀閣寺はいつも以上に趣が増す印象です。高低差のある境内から京都の遠景も望めるのも銀閣寺の特徴。雪の日はその深さによってもおススメの場所が異なってきて、例えば枯山水の庭園は、深い雪が積もると石までもが埋まって、ただの雪原になってしまうこともあります。個人的には、この日のような「雪化粧」くらいが、浅すぎず深すぎず枯山水庭園は最も美しく飾られのではと思う次第です。

さて、この日の雪は京都でも北の方にお住まいの方しか、降ったことさえ気が付かないほどの少なさだったと思います。八坂神社や平安神宮は僅かに屋根が白くなる程度。北へ行くと少しづつその量が増えてきて、銀閣寺辺りまで来れば、ほどよい雪化粧といった印象です。京都ではこのように北と南で雪の量が異なることも多く、そこがまた気象予報士の腕が問われる部分かもしれません。こうした局地的な予想は、現地の知見を積み重ねていく必要があります。

銀閣寺の拝観は午前9時から。既に多くの方が門の前で待っていました。私も、開門と同時に中に入り、銀閣の前にはこの日一番乗りで行くことができました。雪が作り出す白と黒の水墨画のような風景は、銀閣をより引き立ててくれます。京都の世界遺産には、国宝建造物か国の特別名勝庭園のどちらかが必ずありますが、金閣寺はその庭が特別名勝で金閣そのものは国宝ではない建物です。一方の銀閣寺は、この銀閣こと観音殿そのものが国宝建造物で、まさに足利義政が建てたものであるという部分に大きな違いがあります。もちろんお庭も国の特別史跡・特別名勝に指定され、日本の数ある庭園の中でも格付け上は最高峰に位置しているのが銀閣寺になります。

室町幕府の八代将軍・足利義政は、政治よりも芸術にその才能を発揮した人物でした。義政は父の暗殺と兄の早世により幼くして将軍になりました。当時は政情が不安定で、側近が政治を主導し、将軍といえども思いのままにならないことの方が多くありました。経済政策では将軍在職24年間の間に、徳政令を13回も出しています。徳政令とは金銀などの貸し借りをすべて帳消しにしてしまうという恐るべきものですが、それを2年に1回以上の頻度で出すとは、ものすごい話です。

義政は優柔不断といわれ、数々の家臣から差しだされる娘には手はつけるものの、正室は定めず、21歳まで正室無しという状況でした。そこに入ってきたのが日野富子。将軍家は代々日野家から夫人が来ていましたので、富子は正室の位置に納まります。ただ、彼女は子どもをなかなか生みません。にもかかわらず、義政の周りの女性たちを次々と追放して、義政が子を作る可能性を奪ってしまいます。そして月日が過ぎ、将軍職に嫌気がさした義政は、跡継ぎを弟の義視(よしみ)と定めたのです。ところがその翌年、富子は男の子(後の義尚)を生みます。こうして巻き起こった跡継ぎ問題が応仁の乱に発展していきます。

銀閣寺がある場所には、元は浄土寺というお寺があり、現在も辺りの割と広い範囲の地名に「浄土寺」が残されています。この浄土寺はちょうど義政が将軍になった年に火災で大半が焼失。再建の話もありましたが、なかなか進んでいませんでした。そして、義政の跡継ぎ候補となった弟の義視は、この浄土寺の住持。義政は早くからこの地に目をつけていたという説もあります。

応仁の乱を経て、義政の跡継ぎは子の義尚(よしひさ)に決まり、義政は自由の身となります。京都が焼け野原となった分、新たに何かを作っても文句を言われることはありません。こうして浄土寺の跡に、東山山荘を作り始めたのです。最初の建物(常御殿)ができると、義政はさっさと移ってきました。実はこのころには夫人の日野富子とは不仲になっていて、事実上の別居。とはいえ、富子の方も資産運用にのめり込み、夫婦ともども好きなことをしていたので、別居していても大きな不満は無かったのでしょう。

一方で、東山山荘の造営は強制的な徴税や人夫を徴用して行われていました。この時の徴税は本来は御所の造営に使われるものだったとされ、この時代からの皇室は歴代で最も困窮した時代を迎えることになります(後土御門天皇は葬儀の費用も出せず、亡骸が40日も御所に置かれたままというありさまでした)。混乱の時代に出現した東山山荘。義政は晩年のすべてをこの東山山荘につぎ込みます。

建物や庭園は苔寺で知られる西芳寺を真似、石は各寺院からも寄付を受けました。襖絵は当初は雪舟に依頼しますが断られ、雪舟が代役として紹介したのが狩野正信です(正信はそれ以前から幕府の絵師だったという説もあり)。正信はかの有名な狩野派の初代として、東山山荘の襖絵で地位を確立していきます。このように、義政は東山山荘にその持てる力の全てを注ぎ込みましたが、子の義尚に先立たれてからはめっきりと元気をなくし、観音殿の完成間近に亡くなりました。

現在、境内には義政時代の建物が二つ残ります。一つは有名な銀閣(観音殿)。もう一つは東求堂。東求堂は義政の持仏堂で、阿弥陀如来像を安置し、書斎である同仁斎は、折上げ格天井や違い棚、畳み敷きや襖や障子をめぐらすなど、現在の建物にもつながる「書院造」の部屋となっています。例年、春と秋に公開されますので、弄清亭(ろうせいてい)にある奥田元宋の大変美しい襖絵と合わせて、是非一度はご覧になって頂きたい場所です。

今回のブログは長くなってしまいましたが、その分雪景色の写真を多く載せられたでしょうか。銀閣(観音殿)や、プリン型の向月台(こうげつだい)、銀沙灘(ぎんしゃだん)など、まだまだ見どころは尽きませんが、続きはまたの機会とさせて下さい。銀閣寺は雪景色はこうした庭を美しく飾り、いつにも増して、幽玄さを感じられることでしょう。幽玄とは「趣がたいへん深いこと」を表す言葉です。

私のおススメは、錦鏡池に移る「逆さ銀閣」。逆さ”金閣”は有名ですが、銀閣も拝観順路の最後の方で池に移る姿を見ることができます。写真に収めるには、ちょっと上から撮らないといけませんが、人が入らず美しい銀閣を持ち帰ることができるでしょう。京都で雪を見られる機会もあと僅か。雪のチャンスがあれば、朝一番に足を延ばしてみて下さい。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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