醍醐水と上醍醐


今回も上醍醐のご紹介です。

険しい上醍醐山中に、今も湧き続けているのが醍醐水。「醍醐」とは、牛乳から作る酥(そ:ヨーグルト)の最高のものをいい、山上で口にした水のおいしさを醍醐の味に例え、また仏法の教えが心の糧としても最高であることをも表しています。現在の醍醐水前には、地下からくみ上げた水が出る蛇口があって、親切にカップも置かれ、水を味わうことができます。険しい山道を登ってこの水を口にすれば、まさに「醍醐味」を感じることができるかもしれません。

「南伝大蔵経」によると、ヒマラヤにいる牛が忍辱(にんにく)という草を食べると、醍醐という乳を出すとあります。忍辱(にんにく)を食べなければ「醍醐」は出ないため、人間も同様に忍辱(にんにく:耐え忍ぶこと)を経なければ、醍醐は味わえないと戒めているのです。その意味では、現代人にとってのこの山道はちょうどよい忍辱(にんにく)なのかもしれませんね。

上醍醐が山上にありながら廃れなかったのも、こうした水の存在があったからだともいわれています。さて、その醍醐水のお味。私の感想ですが、醍醐水はやや癖のある味に感じました。醍醐寺ホームページによると「超軟水(なんすい)」だそうで、この癖はそのためかもしれません。なお、醍醐水は下醍醐やホームページからでもペットボトル入りで買うことができます。

さて、醍醐水の建屋に向かって左の階段を登ると、横尾明神の小社があります。現在は隣の清瀧(せいりゅう)宮の社殿の方が圧倒的に大きいため、付属の社のように見えてしまいますが、前回のブログに書いた通り、醍醐寺にとっては大切なお社です。清瀧宮の神も醍醐寺を守護する神で、神泉苑に祀られている善女龍王と同じ神様といわれています。善女龍王は、中国の密教寺院・青龍寺に飛来してその守護神・青龍となりますが、空海が唐を去る際に青龍は海を渡って船上の空海につき従い、真言密教の守護神となりました。このように、はるばる海を渡って来たため、青龍にサンズイを付け加え「清瀧」と書いて”きよたき”ではなく「せいりゅう」と読ませています。

上醍醐の清瀧宮拝殿は国宝で、東向きに破風があるものの、拝む先の本殿は南向きに建てられています。本来は拝殿も南向きに作るものだと思いますが、崖にあるためそうはできなかったようです。そのため、そのまま破風を向いて拝むのではなく回れ右をして拝むのだと、ある本には書かれていました(本当でしょうか?)。醍醐水の上に、かつては准胝堂がありましたが、現在は更地になっています。再建予定はありますが、具体的な時期はまだ情報がありません。

准胝堂跡からさらに登ると薬師堂が現れます。上醍醐で最も古い建物で、1121年に再建され応仁の乱の兵火などを耐え抜いた平安時代の貴重な建物です。薬師堂は醍醐天皇の勅願によって建てられました。なぜ醍醐寺が天皇の勅願寺となり得たのでしょうか。当時の醍醐寺は深い山中にあり、その維持には財力も必要でした。そこで力になってくれたのが、辺りの有力者・宮道弥益(みやじいやます)です。

宮道弥益は、勧修寺の創建に名前が出てくる人物です。醍醐寺創建の数年前のこと、山科の地に鷹狩りにやってきた藤原高藤は、急な雷雨にあい、宮道弥益の家に雨宿りのため立ち寄りました。その家でもてなしてくれたのは13・14歳頃の美しい娘・列子(たまこ)。二人は一夜にして恋に落ちました。しかし、高藤は都へと帰らねばならず、必ず迎えに来ると告げて去っていきます。ところが、家の事情がそれを許さず、歳月が流れていってしまいます。6年(5年とも)後、高藤はようやく機会を得て、再び宮道弥益の家を訪ねてみると、列子の傍らには小さな姫君が。この姫君が、後の宇多天皇の女御(藤原胤子)となり、生まれた子どもが醍醐天皇となっていったのです。

醍醐天皇から見れば、ひいお爺さんである宮道弥益が援助した寺が醍醐寺であり、醍醐寺の聖宝は宇多天皇や醍醐天皇自身とも親交がありました。宇多天皇は醍醐天皇に皇位を譲って出家した後、聖宝と一緒に大峯山へと入り、見事に参詣を果たしています。一方、醍醐天皇は即位して3年後に、自らのルーツでもある、宮道弥益邸宅跡に勧修寺を創建。山科南部や醍醐地域が朝廷の中で重要な場所となっていったのです。醍醐天皇の勅願によって薬師堂が建立されている最中の909年に聖宝は亡くなりますが、天皇はその後も下醍醐に伽藍を築いて行くこととなります。

薬師堂に安置されていた薬師如来像(国宝)は、薬師堂が完成した913年頃の作で、まさに醍醐天皇時代の姿を今に伝えてくれています。現在は、霊宝館に移され、上醍醐まで行く必要はありません。この薬師如来像は歴代天皇からも信仰厚く、自らの体の悪いところと同じ場所に金箔を貼ると治ると信じられていました。そのため「箔薬師」とも呼ばれています。

上醍醐の薬師堂からさらに山道を登って、鐘楼付近の分岐を左に曲がれば五大堂があります。五大明王像が安置され、静けさが包む道内では素直に畏怖の念を持たされるような雰囲気があります。こうして山上でなければ拝むことができない仏というのもありがたみがありますね。五大堂の前には、向かって左から観賢、聖宝、役行者の像もあり、護摩が焚けるようになっています。

鐘楼付近の分岐を右に進めば、如意輪堂が現れ、上醍醐最大の建物である開山堂も堂々とたたずんでいます。そしてこの場所が醍醐山の山頂で、眺望も開けています。この日はここまで来ると少し雪が残り、上醍醐の山号である「深雪山」を思い起こさせてくれました。上醍醐は、最初の醍醐水から最奥の開山堂までも山道が続いていますので、拝観には少なくとも30分は見ておく方がよいでしょう。

また、開山堂前の階段を下りると、白河天皇の皇后・藤原賢子の陵墓(上醍醐陵)があります。賢子と白河天皇の仲は非常に良好で、後の堀川天皇も儲けていますが、賢子は28歳の若さで亡くなってしまいました。白河天皇は亡骸を抱いたまま号泣したと伝わっています。そして上醍醐山頂の円光院に葬られ、現在その寺は無くなりましたが、明治期に陵墓が築かれています。

さらに上醍醐陵は賢子の娘・媞子内親王の陵墓でもあります。媞子内親王は母の賢子に容姿が似て美しかったと伝わり、白河天皇も殊のほか可愛がって、内親王が斎宮となり野宮(ののみや)へ移る際には、なんと同行までしています。しかし、病弱だった媞子内親王は、21歳の若さで亡くなり、白河上皇は悲しみのあまりその2日後に出家をしています。このように上醍醐陵は、白河上皇の人物像を偲べる場所かもしれません。

さて、上醍醐からの下山道もよく注意が必要です。冬は昼でも足もとが凍っている個所があり、できるだけ手すりを持っておく方が安心です。私も一度、転んでしまいました(大事には至っていません)。険しい道のりの上醍醐。かつては裏技として車でも行ける横嶺峠から尾根伝いに上醍醐へ入ることもできたようですが、現在は入れなくなっているようです。京都では愛宕山と並び、庶民には厳しい道のりではあるものの、訪れる価値のある場所でしょう。機会がありましたら参拝してみて下さい。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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