修学院離宮 後水尾上皇の雄大な山荘庭園


今回は、後水尾上皇が手掛けた修学院離宮をご紹介します。

宮内庁の参観は、午前と午後に分けて一日に2か所までOKですので、修学院離宮は仙洞御所と同じ日に訪れました。仙洞御所から公共交通機関を使って移動をするなら、出町柳から叡山電車に乗って修学院駅で下車し、徒歩20分です。自信のない方はタクシーを使う方がよいかもしれません。そして修学院離宮の最大の注意点は、その広さゆえの歩く距離の長さ。離宮内だけで約3kmもの道のりで、急な坂道の登り下りもあります。当日現地で3km歩くと聞いて驚かれる方もいますので、しっかり歩きやすい靴と服装でお越しください。当然、夏は厳しさが増しますので、覚悟をお持ち下さい。参観時間は1時間15分から30分です。

さて、修学院離宮は江戸時代初めに、桂離宮に遅れること30年余りを経て、後水尾上皇によって築かれた離宮です。上皇は、現在の円通寺付近に幡枝御所を営んでいましたが、水が得難いことを理由に、新たに修学院離宮を造営しました。江戸幕府によって皇室の権力が抑えられていく中、後水尾天皇は30代で皇位を譲って上皇となり、以後は学問や芸術に傾倒していきます。そして60代になって情熱を傾けたのが修学院離宮です。足利義政が東山山荘(銀閣)を造営したモチベーションに近いものがあるのかもしれません。

修学院離宮は自然景観を取り入れた開放的で簡素な造りが特徴で、上・中・下の三つの御茶屋が横に離れて平面的かつ、高低差を持って立体的に据えられ、それぞれに異なった趣を楽しむことができます。仙洞御所と同じく非常にスケールの大きい、上皇らしいお庭です。参観距離が3kmあることからも、その広さが伝わることでしょう。上皇は60歳で離宮の造営に取り掛かり、63歳で一応完成。85歳で崩御されるまで70数回訪れているほど、熱を込めて造営された離宮でした。

参観は下御茶屋から始まります。独特な形の燈籠が並ぶ庭を抜け、少し高台に立つ書院が寿月観(じゅげつかん)。庭園に面してL字型に部屋が配置され、どの部屋からも眺めが美しいように作られています(現在の建物は文政年間に旧来の企画に則って再建されたものです)。ここは後水尾上皇の御座所にあてられたため、実用的な造りともなっています。一の間には一段高い上段も設けられ、襖の絵は岸駒(がんく)の水墨画などが描かれています。

下離宮を出ると、雄大な山並みが現れます。向かって左には比叡山が望め、目の前の「御茶屋山」とちょうど同じ高さに見えています。このように山々が並び立つ様も計算されているのでしょう。ここからは松並木で、上御茶屋と中御茶屋へと分岐します。この連絡路は明治時代に離宮に指定されてから設けられたもので、通称「御馬車道」と呼ばれていますが、かつては上皇も田の畦道を行き来していました。山荘としての区域を最小限にして周りに田畑を残し、そこで耕作する民のありのままの姿を景観に取り入れることも、後水尾上皇の理想だったのです。

拝観順路は、松並木を抜けて中御茶屋へと続きます。道中、田畑で耕作をする方々も見かけます。地図で見るとよく分かりますが、修学院離宮の範囲には斜面に広がる棚田が広がり、京都近郊で棚田が残されている貴重な地域でしょう。ただ、この棚田も離宮を拝観しない限りは見ることができず、耕作されている近隣の農家の方々は、特別に契約を結んで昔ながらの形で行っているそうです。最新鋭の機械が見当たらず、本当に長閑な「懐かしい風景」が見られる場所ともなっています。

中御茶屋は、後水尾上皇の第八皇女・朱宮(あけのみや)内親王のために造営された楽只軒(らくしけん)、後水尾上皇の皇后である東福門院の女院御所の対面所であった客殿、朱宮が出家された林丘寺からなります。もともとはすべて林丘寺の境内でしたが、明治18年に離宮に編入されました。参観では、楽只軒を横目に見ながら、まず客殿の前に進みます。

この客殿の一の間にあるのが、「天下の三名棚」の一つ「霞棚」です。実際に見てみると、なるほどと思いますが、まさに霞がたなびくように、幾層にも違い棚が組み合わされています。天下の三名棚の他二つは、桂離宮の桂棚と、醍醐寺三宝院の醍醐棚ですが、実は桂棚は拝観ができず、三宝院は写真撮影が禁止のため、こうして皆さんにお届けできるのは修学院離宮の霞棚が唯一のものです。

また客殿杉戸の絵も印象的。鯉の図には網が掛けられていますが、夜な夜な抜け出して池で遊ぶので、丸山応挙の筆によって網をかけたのだそう。ただ、がちがちに覆ってしまうのはかわいそうだということで、所々網が破れているのが面白いですね。客殿は元々が女性の住まいですので、色合いが鮮やかなのも特徴です。奥の杉戸には、祇園祭の山鉾が描かれ、参観では放下鉾と岩戸山の絵を見ることができます。

客殿を回って楽只軒へと向かいます。楽只軒の額は後水尾上皇が自ら書いたものです。部屋には床の間があるなど、現代の家と間取りが変わらないそう。床の間の絵は吉野の桜で、室内は全体的に淡い色で描かれた襖絵に囲まれていました。さて、ここから来た道を戻って、上御茶屋へと向かいます。

御成門をくぐると浴龍池が少し見え、そこから高生垣に囲まれた階段を上っていけば、隣雲亭の手前で突如絶景が広がります。修学院離宮を代表する風景が、この上御茶屋・隣雲亭からの眺めです。高生垣によって、すぐには風景を見せないようにとの演出がなされているわけですね。隣雲亭は展望のために設けられ、上御茶屋の中でも最も高い場所にあります。深い庇の下には、1つから3つの単位で石が埋め込まれ、一二三(ひふみ)石と呼ばれています。

隣雲亭からの眺めは大変素晴らしく、鞍馬貴船の山々や、遠くは愛宕山。そして京都市街を一望でき、西山の峰々も眺めることができます。浴龍池も相当大きな池ですが、大自然の中に調和していてその広さのバランスに違和感がありません。スケールの大きさに、ただただ圧倒されるばかりです。後水尾上皇が築いた修学院離宮は、この眺望があればこそ築かれたのかもしれません。なお、池にある万松塢(ばんしょうう)という島が、かつては岩が露わで龍の背のように見えたため、龍の水浴びになぞらえて浴龍池と呼ばれています。

高台から下りて木漏れ日差す林の中の庭を進んで行くと、浴龍池にある中島と万松塢とを繋ぐ千歳橋が現れます。千歳橋の景観も、修学院離宮を代表する光景と言えるでしょう。参観コースでは楓橋を渡って中島に立つ窮邃亭(きゅうすいてい)へと向かいます。ちなみに楓橋のあたりは、文字どおり楓が綺麗な場所です。窮邃亭は後水尾上皇の創建当時から残る唯一の建物で、内部には上段の間があり、美しい池の眺望を望むことができます。

窮邃亭から土橋を渡り、浴龍池の周りを歩くと、池に面して御舟屋が見えます。かつては浴龍池に舟を浮かべて遊んだそうで、船着きの跡も池には残されています。浴龍池は、たいへん大きく、斜面の上にこれほどの大池があることが下からは想像しがたいですね。池の西側からは、小高い場所にある隣雲亭が見え、風景になじんでいます。つくづく、様々な場所からの眺めを計算して作られているのだと思わされます。

以上、参観はこのまま受付まで戻って終了です。修学院離宮は、後水尾上皇がその情熱を傾けて築いた山荘で、その広い離宮内の各所で様々な風景を楽しむことができます。私のように、普段からせせこましい都会に住んでいる者には、その広々とした風景に、まるで遠くへ来たかのような錯覚さえ覚えます。最初にも書きましたが、歩く距離が約3kmと長いですので、十分心づもりの上、この素晴らしい離宮をお楽しみください。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

より大きな地図で 修学院離宮 を表示

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

PAGE TOP