洛西竹林公園 旧二条城の石仏群と百々橋


京都市の洛西竹林公園の中に、旧二条城からの出土した石仏群百々橋(どどばし)があります。

向日市の竹の径(みち)を進んでいくと、京都市が運営する洛西竹林公園に行きつきます。竹の径は向日市と京都市との境にあるため、こうした一見不可解なことがおこっています。洛西竹林公園は、洛西ニュータウンの開発に伴ってかつての竹林が姿を消す中、竹林を積極的に保存する目的で作られました。植物資源としての竹の生態的な特徴が観察できるよう、様々な種類の竹が植えられ、珍しい竹の花が咲く期間を計るための竹林などもあります。

竹の資料館では、竹についての様々な展示があって、非常に勉強になります。竹について知りたいことがあれば、ここに来ればたいていのことは分かりそうです。また、伝統工芸品としても名高い竹製品も数多く展示・販売されています。茶室や和風庭園もあって、有料で使用することもできます。そして、高低差のあるお庭・生体園は、美しい竹が整備され、その種類は110種類にも及ぶそう。竹林の美しさを、竹の径とはまた違った角度で感じられる公園となっています。

そんな竹の公園の中に、歴史的に価値のあるものが二つもあります。一つは、旧二条城から発掘された石仏群。「旧」と書いたのは、現在の徳川家康によって建てられた二条城ではなく、織田信長が室町幕府最後の将軍・足利義昭(よしあき)のために築いた二条城のことだからです。信長の二条城は現在の場所とは異なり、南は烏丸丸太町を上がった場所から北は出水通、東は御苑内、西は新町通の一帯にありました。現在は石碑が平安女学院の一角に立っています。

この旧二条城が、地下鉄烏丸線の工事に際して発掘され、石垣が見つかりました。その石垣に使われていたのが、洛西竹林公園にある石仏群です。当時信長と親交のあった宣教師、ルイス・フロイスの記録書「日本史」によると「信長は多数の石仏を倒し、首に縄をつけて工事場に引かしめた。都の住民は、これらの偶像を畏敬していたので、それは彼らに驚嘆と恐怖を生ぜしめた。」とあり、まさにそれを裏付けるように、石垣には石仏や石塔、礎石が使われていたのです。

信長は、合理的で古くからの権威を認めなかった人物。僧兵に守られ城と化した延暦寺を焼き討ちして僧をことごとく殺し、武士のように後から自らの軍には加わることのない一向一揆の農民たちは、女・子どもを問わず皆殺しにしたなどの行いでも知られます。石仏も信長にいわせれば、ただの石ということでしょう。こうして実際に目の前に並ぶ石仏群を見ると、彼のすごさを感じると同時に、当時の人も感じたであろう恐ろしさも感じられそうです。石仏群はかなりの数がありますので、歴史好きの方は、是非、現地で見てみて下さい。

もう一つ、竹林公園の中で目立つ橋が百々橋(どどばし)です。京都の史跡に詳しい方ならピンと来たと思いますが、上京区にかつて流れた小川(ここわ)に架かっていた百々橋が移築されているのです。橋の名前は、橋がかかっていた辺りの小川通と寺之内通との交差点が百々ノ辻と呼ばれていたことに由来すると言われています。応仁の乱の最初の戦いでは、東軍と西軍とが百々橋を隔てて戦いを繰り広げ、戦場として名が通った橋でした。昭和38年に小川が埋め立てられた際に、石橋は一時、室町小学校で保存された後、洛西竹林公園に移されています(室町小学校には礎石が現存)。

このように京都市の最果ての地とも言える公園には、意外な史跡も眠っています。なかなか訪れる機会の少ない場所かと思いますが、竹の美しさは京都の中でも指折りで、個人的には嵯峨野の竹林をしのぐと思っています。機会がありましたら是非足を延ばして、歴史と美竹に包まれてみて下さい。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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