岩倉具視が隠れ住んだ家 岩倉具視幽棲旧宅

岩倉具視幽棲旧宅
先日、岩倉具視幽棲旧宅を訪れてきました。今年の大河ドラマ「八重の桜」にも登場する、岩倉具視(ともみ)が幽棲(ゆうせい:ひっそりと住んだ)した旧宅です。

岩倉具視幽棲旧宅大河ドラマ「八重の桜」も、いよいよ京都へと舞台が移ってきました。私も、新島八重の半生をたどるという散策を何度か実施させて頂き、あるいは会津若松へも足をのばし、ついでに言えば同志社大学出身ということもあり、今年の大河ドラマは例年以上に親しみを持って見させて頂いています。新島八重は、晩年までハンサムですので、是非とも最後まで楽しみに見て頂ければと思います。そんな「八重の桜」の中で、小堺一機さんが好演されているのが岩倉具視です。昭和57年に500円玉が発行される前は、500円札の顔としてもおなじみでした。

岩倉具視幽棲旧宅岩倉具視は、岩倉家の養子で、岩倉家は中流から下級貴族の家柄でした。江戸時代の公家社会は、家格によって官位の昇進がほぼ決まってしまう程の固定化された「身分社会」でしたが、岩倉具視は幕末の動乱期の中、強い政治的主張で頭角を現していきました。幕府が日米修好通商条約の調印勅許を朝廷に求めた際には、岩倉は断固拒否を主張。皇女・和宮が将軍・家茂に降下する件に際しては、条約の引き戻しと攘夷の実行を条件として進めるべきとして孝明天皇を説得、降下推進の中心人物となりました。和宮に随行して岩倉が江戸へと向かった時には、もはや下級公家ではなく、天皇の勅使として幕府の老中と対等に渡り合える立場となっていました。幕府に対しても、非常に強い態度に出ている記録が残されています。

岩倉具視幽棲旧宅ところが尊王攘夷の機運が高まる中、岩倉も朝廷の権威を高めようと尽力していたものの、結果的に和宮降下という「公武合体」を推進したことから佐幕派とみなされ、尊王攘夷派の公卿から排斥運動を受けてしまいます。ついには孝明天皇から蟄居の命が下り、極めつけは辞官の上、出家を申し出るように言われてしまうのです。岩倉は素直にこれに従って出家しましたが、それでも天誅の脅しや、洛中には住んではならないという追放令も出されるなど、厳しい状況に追い込まれ、京都近郊の数か所を点々とした後、長男が用意した京都の北にある岩倉村の住居へと幽棲したのでした。

岩倉具視幽棲旧宅岩倉具視が、文久2(1862)年から慶応3(1867)年まで隠れ住んでいた旧宅は、現在は史跡として見ることができます。場所は「床みどり」「床もみじ」でしられる岩倉実相院のすぐ近くですので、合わせて行かれるとよいでしょう。旧宅は茅葺屋根の主屋と、その裏に隠れるような付属屋とに分かれていますので、裏側にも回ってみて下さい。

岩倉具視幽棲旧宅 対岳文庫平成20(2008)年から4年間をかけて京都市が本格的な修理を行ったこともあってか、旧宅の建物は綺麗です。ドラマなどではあばら家のように描かれることが多いようですが、実際にはなかなか広くて悪くはない建物だと感じます。意匠もなかなか凝っています。

岩倉具視幽棲旧宅 遺髪碑主屋の隣には岩倉具視の遺髪を納めた遺髪碑があります。また、敷地内には洋風な外観の対岳文庫もあります。昭和3年に建てられた鉄筋コンクリートの建物で、武田吾一の設計によります。2007年に国登録有形文化財に指定されました。中には岩倉具視の関連資料が展示されていますので、忘れずにご覧ください。それにしても、幕末京都を直接偲べる建物が残されているのは貴重なことです。

岩倉具視幽棲旧宅 紅葉岩倉具視幽棲旧宅は、紅葉も意外と綺麗。実相院へ行かれた際は、足を延ばして覗いてみてもよいでしょう。旧宅も対岳文庫も文化財ですので、それらの建物と紅葉がよく似合います。ちなみに旧宅は今年から京都市による運営に変わり、諸手続きのため冬から拝観を休止していましたが、この6月に公開を再開しています(拝観料300円)。大河ドラマ「八重の桜」は、京都へと舞台が移ってきましたが、恐らく岩倉具視らについてもそれなりに描かれていくのでしょう。なかなか明治以後については触れられることが少ないので、是非、ご覧になって頂ければと思います。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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