土御門天皇 金原陵

土御門天皇 金原陵
今回は長岡京市にある土御門天皇陵をご紹介します。

土御門天皇 金原陵京都は千年の都、古くは天智天皇から明治天皇に至るまで、歴代の天皇の陵墓が存在しています。中には明治以降に「造成」されたものもあり、あるいは本当にその天皇が眠っているか定かではないものも多くあります。一方で、確実に眠っているとされる陵墓もあり、調べて行くと面白い分野の一つです。また、造成された陵墓でも、闇雲に作られたのではなく、その天皇にゆかりを持った場所がほとんどですので、その天皇を偲ぶために、陵墓へと足を延ばしてみてもよいでしょう。

土御門天皇 金原陵今回は、土御門天皇の金原陵(かねがはらのみささぎ)をご紹介します。土御門天皇と聞いて、すぐにどの時代の天皇かが分かった方は歴史に詳しい方でしょう。鎌倉時代のはじめ、1221年に起きた承久の乱後に配流となった三人の上皇のうちの一人といえば、思い出す方もおられるかもしれません。土御門天皇は、承久の乱の首謀者である後鳥羽上皇の第一皇子として生まれました。後鳥羽上皇が院政を行うために、わずか3歳で即位しましたが、その選らばれ方も他の2兄弟との「籤(くじ)と占い」という、驚くべき方法でした。ただ、権謀術数渦巻く宮中において、本当に偶然に土御門天皇が選ばれたのかは定かではありません。

浄土院土御門天皇の母は、源在子(ざいし)です。在子の父は源通親(みちちか)となりますが、実の子ではなく、在子は母の連れ子として源通親の子となりました。源通親は、土御門通親とも呼ばれ、後白河上皇の時代に頭角を現します。後白河上皇が亡くなると、上皇の晩年の寵姫・丹後局(たんごのつぼね)とともに、九条兼実への反対勢力の中心人物となりました。九条兼実は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の後ろ盾を得て、当時の宮中で力を持っていた人物です。余談ですが、丹後局は、銀閣寺近くにある浄土院に「日本の楊貴妃」として美しい像がありますので、機会があればのぞいてみて下さい。

土御門天皇 金原陵 道しるべ九条兼実の失脚後は、丹後局や源通親が力を持つようになります。土御門天皇が即位をしたのはまさにそのような時期に当たり、皇位決定の経緯をめぐり、陰では相当の非難があったようです。源通親は、頼朝が亡くなると順調に出世をしていきます。しかし、土御門天皇の庇護者であった源通親が亡くなると、後鳥羽上皇は本格的に院制を開始。より愛情を注いでいた、自らの第三皇子(順徳天皇)に位を譲ることを土御門天皇に迫り、天皇はわずか15歳で退位しました。土御門天皇は温和な性格で情け深かったといわれていますが、順徳天皇は父の後鳥羽上皇譲りか、才知に富み、かつ活発で明るかったとされますので、性格の違いが後鳥羽上皇の気に障ったのかもしれません。

土御門天皇 金原陵への看板後鳥羽上皇、順徳天皇の時代になった宮中は、ついに1221年、鎌倉幕府を倒そうと、承久の乱を起こします。しかし、東国武士たちの軍にはかなわず、あえなく敗北。後鳥羽上皇、順徳上皇(承久の乱前に、仲恭天皇に位を譲っていた)は、それぞれ隠岐と佐渡に流罪となりました。土御門上皇は承久の乱には無関係で、むしろ父である後鳥羽上皇の企てを諌めたといわれていますが、父が流罪になると知るや、自ら「ひとり都に留まるに忍びない」と幕府側に強く求め、わずかなお供を連れて四国の土佐国へと赴いたのです。後に幕府の計らいで、やや都に近い阿波国に移された上皇は、1231年、その地で生涯を閉じました。土御門上皇の亡骸は阿波国で火葬された後、現在の陵墓がある金ヶ原に安置され、母の承明門院(源在子)によって、法華堂が建立されました。

土御門天皇 金原陵話にはまだ続きがあります。土御門上皇の死から11年後、時の四条天皇が急死すると、土御門天皇の子であった邦仁親王が鎌倉幕府の後押しによって即位しました。対立の継承候補は順徳上皇の子どもで、まだ存命中だった順徳上皇の復権を幕府が嫌ったためともいわれています。こうして邦仁親王は後嵯峨天皇として即位しました。後嵯峨天皇は、天皇家が2系統に分かれる両統迭立のきっかけを作った天皇として著名ですが、実は若き日は配流になった土御門天皇の子どもとして不遇の時代を過ごしていて、皇位継承の話も、ちょうど仏門に入ろうとしていた寸前のことでした。このとき、後嵯峨天皇の祖母である承明門院(源在子)はまだ存命中で、その喜びは相当だったことでしょう。

駐車場後嵯峨天皇の息子からは、鎌倉幕府の将軍も出て宮将軍としても知られます。このように、土御門天皇の一族は鎌倉幕府と強いつながりを持ち、土御門天皇亡き後にその子孫が繁栄していくこととなります。また、現在の天皇家の直接の祖先にも当たります。金ヶ原の天皇陵は、後嵯峨天皇の即位以後、天皇の即位を報告する山陵使の派遣先の一つになり、鎌倉時代には重要な陵墓とされました。しかし、鎌倉幕府の滅亡など時代とともに陵墓は荒れ、江戸時代末の文久3(1863)年に修造されて、現在に至っています。

土御門天皇 金原陵から金原陵は、ここを目的に訪れないとまず行くことはない場所にあります。立地は少し高台で、ちょうど京都市で最も高い日本電産のビルと、京都タワーが並んで見えて、なかなか美しい光景です。日本電産のビルはスペースシャトルをモチーフにしていて、京都タワーは灯台ですが、並んで見ると、京都タワーもロケットのようにも見えますね。陵墓には駐車場がありますので、機会があれば訪れてみて下さい。

二尊院 三帝陵なお、嵯峨野の二尊院の中に、三帝陵として、土御門、後嵯峨、亀山の各天皇の遺骨が分骨されたという石塔があります。二尊院を再興した、法然上人の弟子・湛空は、土御門天皇と後嵯峨天皇に戒律を授けており、後嵯峨天皇の子どもである亀山天皇の遺勅により、二尊院に分骨されたとのこと。明治維新までは勅旨の参拝もあったそうです。さて、今回は天皇陵について書いてみました。私も、京都にある天皇陵は淳和天皇陵を除き、全て見てきましたので、また訪れる機会の少ない陵墓を中心に記事を書いてみようと思います。

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ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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