長慶天皇陵 大正天皇陵よりも新しい陵墓

長慶天皇陵
嵐電嵯峨駅の近くにある長慶天皇陵。実は、大正天皇陵よりも新しい陵墓です。

長慶天皇陵今回は、天皇陵シリーズです。以前は、土御門天皇陵について書いてみました。今回は、長慶天皇陵です。長慶天皇と聞いてすぐにどの時代の天皇かが分かる方は、間違いなく歴史がお好きな方でしょう。第98代の長慶天皇は、南朝の天皇で後醍醐天皇の孫にあたります。その在位時代は南北朝時代とは言っても、既に室町幕府は成立し、将軍は3代目の義満へと移っていた頃です。天皇は、北朝に対して強硬派であったと考えられており、南北朝の合一は、次代の後亀山天皇の時代になって実現することとなります。

長慶天皇陵実は長慶天皇は、その存在自体が疑問視されていた歴史があり、江戸時代以来、議論が重ねられてきました。つまり、存在自体が疑問である以上、その陵墓も比定されてこなかったのです。結論が出ないまま、世は明治を過ぎてしまいます。そして大正時代となって、ようやく新資料の研究が進み、皇位にあったことが証明されました。大正15(1926)年に在位が公的に認められ、新たに皇統に加えられました。

長慶天皇陵以後、陵墓の発見をすべく、全国的に調査が行われましたが、その候補地は定まるどころか数が増える一方で、最大では100か所を超える個所が候補に上るほどでした。臨時陵墓調査委員会は、それぞれを分析し、比較的信憑性の高い場所については実地調査も行っています。しかし、結局どこも明確な決め手を欠いていました。

長慶天皇陵とはいえ、結論の方向性を出さないわけにもいきません。そこで長慶天皇の晩年の事情を鑑みて、最も「妥当」とされたのが、現在の陵墓がある場所です。この地には、天龍寺の塔頭・慶寿院があり、長慶天皇はここで亡くなったと推定されました。しかし当然に異説はあり、また、遺骸が葬られた場所とは限らないのに陵墓とするのには無理があります。そのため、この結論が出された昭和16(1941)年の段階では、ひとまず陵墓参考地が現在地に定められました。

長慶天皇陵 参道この時点で、長慶天皇を想定した陵墓参考地は、京都の地の他に青森県と和歌山県の計3か所定められていました。この中から長慶天皇陵を最終的に決定せねばなりません。そこで「擬陵(ぎりょう)」という考え方が出てきます。長年の調査研究によっても長慶天皇の陵墓は発見できず、この先も明確な根拠をもって定められる可能性は乏しいので、それと推考される地に「擬似の天皇陵」を定めるほかないというというのです。前例としては、例えば京都では、桓武天皇陵、二条天皇陵、仲恭天皇陵が、遺骸が確認できない場所に定められた陵墓としてあります。

長慶天皇陵にある事務所こうして、昭和19(1944)年、慶寿院跡の現在地が長慶天皇陵として正式に定められ、青森と和歌山の陵墓参考地は廃止されました。長慶天皇陵が定まったことにより、真偽のほどはともかく、歴代天皇全ての陵墓が定まりました。昭和19年は長慶天皇が亡くなってからちょうど550年経つ年でもあり、結論を急いだところもあるかもしれません。

後亀山天皇陵このように現在の長慶天皇陵には、明らかに天皇が眠ってはおらず、あくまで「縁の深い地」ということになります。しかもその陵墓は大正天皇陵よりも新しいのです。天皇陵を巡る事情は、なかなか奥深いものがありますね。ただ、結果的に嵯峨の地に定められたことは「歴史を偲ぶ」という意味ではよかったのではと個人的に思います。長慶天皇の弟である次代の後亀山天皇の陵墓も同じく嵯峨野にあり、南北朝合一の舞台となった大覚寺もほど近くにあります。一帯には、他にも南北朝を偲べる史跡やお寺が点在し、当時に思いを馳せながら嵯峨野や嵐山を歩くこともできますね。いずれ、そんな散策企画を作ってみても面白いかなと思っています。

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ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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