龍安寺の裏にある陵墓 朱山七陵 平安時代の三天皇と禎子内親王

朱山七陵 禎子内親王 圓乗寺東陵
龍安寺の裏に朱山七陵と呼ばれる陵墓群があり、麓には平安時代の三天皇と禎子内親王の陵墓があります。

朱山七陵 三天皇の陵墓世界的にも有名な龍安寺。その裏山に多数の陵墓あることはあまり知られていないでしょう。一帯には合計7基の皇族の陵墓があるため、地名を取って朱山七陵と呼ばれています。陵墓があるエリアは、麓の4基と山上の3基の、大きく分けて二つに分かれています。今回は麓の陵墓を紹介し、次回の陵墓紹介で山上の陵墓について書いていきます。

後朱雀天皇陵朱山七陵は、麓に後朱雀天皇・後冷泉天皇・後三条天皇の三天皇の陵墓と、後朱雀天皇の皇后である禎子(ていし)内親王の墓があります。後朱雀天皇・後冷泉天皇は、藤原氏が娘を天皇の妻とし、生まれた男子の外祖父として政治の実権をにぎった、いわゆる「摂関政治」のピークの後期にあたる天皇です。後朱雀天皇の最初の妻は藤原道長の娘である嬉子でした。嬉子は後の後冷泉天皇を生みますが、産後すぐに亡くなり、変わって入内したのが禎子内親王です。

禎子内親王 圓乗寺東陵禎子内親王は、道長の孫で、三条天皇の娘です。道長は三条天皇に娘の妍子(けんし)を入内させ、男子の誕生を期待していましたが、生まれてきたのは可愛い女君。がっかりした道長は、三条天皇を退位させて自らの孫を皇位につけようと画策していきます。もし生まれていたのが男子であったならば・・・、三条天皇と道長の仲も改善していたのかもしれません。この時生まれた女君が、禎子内親王。道長の子孫には長命な人物も多いのですが、禎子内親王も82歳まで長生きをしています。

後冷泉天皇陵道長亡き後は、道長の息子で平等院を築いた藤原頼道や、その弟・教道らが後朱雀天皇・後冷泉天皇に娘を入内させ、摂関政治は続いていくかに見えましたが、摂関政治の要たる男子には恵まれませんでした。そして後冷泉天皇の後を受けて即位をしたのが、後朱雀天皇と禎子内親王との子である、後三条天皇です。

後三条天皇陵つまり後三条天皇は、藤原氏を直接の母には持たず、藤原氏が外祖父として、それまでのような強い権力を握ることができなくなったのです。藤原氏を直接の母に持たない天皇は、宇多天皇以来170年ぶりのことでした。藤原摂関家に気兼ねをしない政治をすすめた後三条天皇。延久の荘園整理令でも歴史上知られています。後三条天皇の次に即位をしたのが、昨年の大河ドラマでも登場をした白河天皇となります。白河天皇はこうした摂関政治の衰えの流れの中で登場していきました。

三天皇陵への参道朱山七陵の中でも、上記の三天皇陵と禎子内親王の墓はすぐに行けますので、平日の龍安寺に訪れる歴史好きの方は、足を伸ばしてみても面白いのではと思います。陵墓のエリアに入ってすぐに見えるのが禎子内親王。単独で築かれています。三天皇の陵墓はその少し奥の階段を上った場所にあり、向かって右から後朱雀天皇、真ん中が後冷泉天皇、左が後三条天皇と、親子で並んでいます。

禎子内親王 圓乗寺東陵辺りは陵墓らしく木々が包んで、荘厳な雰囲気さえ感じます。世界遺産として賑わう龍安寺で偲べる歴史。よければ足を延ばしてみて下さい。さて、麓の陵墓群から山道の参道を上ると行けるのが、一条・堀川天皇陵。京都屈指の絶景を望める陵墓です。次回の天皇陵紹介で、詳しく書いてみようと思います。

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ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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