朱山七陵 絶景を見つめる 一条・堀河天皇陵

朱山七陵 一条・堀河天皇陵
龍安寺の裏に朱山七陵と呼ばれる陵墓群があり、山中の参道を上ると、京都の絶景を望む一条天皇と堀河天皇の陵墓があります。

一条・堀河天皇陵への参道入り口世界的にも有名な龍安寺。その裏山に多数の陵墓あることはあまり知られていないでしょう。前回は麓の4基の陵墓をご紹介しました。そこからさらに、山道を経て一条・堀川天皇陵を目指す方は滅多にいないはずです。しかし、その陵墓は、数ある天皇陵の中でも屈指の絶景が望める場所。晴れたに日には、京都の街を一望できます。一帯には合計7基の皇族の陵墓があるため、地名を取って朱山七陵と呼ばれています。

一条・堀河天皇陵への参道麓の陵墓からは早速分かれ道となっていますが、真っすぐの道を進んで下さい。特に案内がありませんので、間違えないようにご注意を。それほど遠くはありませんが、つづら折りにもなっている山中の道。参道は綺麗に整備はされているものの、その参道の石が角ばっていて歩きにくいので、ハイヒールのような不安定な靴では来ない方がよいでしょう。

一条・堀河天皇陵やがて木々が開けてくると、そこが一条・堀河天皇陵です。天皇陵に向かって後ろを振り返れば、素晴らしい絶景が広がっています。京都タワーや東本願寺の屋根、小さく伏見桃山城も見えています。近くを見れば、双ヶ丘が綺麗に見え、仁和寺の五重塔も望むことができます。嵐山や嵯峨野の方面は、宇多野や鳴滝の山が重なってやや見にくく、山がちである京都の地勢を感じることもできます。天皇陵はまさにこの絶景を望む場所にあり、京都の街を見守っているかのようです。

一条・堀河天皇陵一条天皇は、平安時代の王朝文化のピークとも言えるの時期の天皇で、ご存じの方も多いことでしょう。一条天皇の妃となった定子に仕えた清少納言や、後に妃となった彰子に仕えた紫式部、源氏物語も一条天皇の時代に生まれました。このころは世の中が比較的穏やかで、年中行事も決まった通りに行われることが重んじられ、そうした宮廷の日常は、数々の物語や日記などを通して、現代でもありありと情景を思い浮かべることができます。定子が眠っているのが東山の鳥辺野で、一条天皇陵からはそちらを望むことができます。一方、彰子が眠っている宇治は、山の向こうで見えません。

一条・堀河天皇陵からの絶景堀河天皇は、朱山七陵の中では最も時代が新しい天皇です。白河天皇の息子として後を継ぎ、僅か9歳で即位しました。白河天皇は上皇となり、幼い天皇の後見として、日本の政治史上画期的な「院政」が始まっていくのです。余談ですが、白河上皇といえば世を思いのままに動かしたイメージが強いですが、意外とそうでもなく、院政が開始されるまで、あるいはされた後にも、いくつもの難関がありました。白河天皇についてはまたどこかで詳しく書いてみたいと思います。

一条・堀河天皇陵からの双ヶ丘堀河天皇は病弱で、そのことが世継問題を生み、院政初期は盤石ではありませんでしたが、天皇は成長すると心優しく聡明な才智を発揮し始めます。白河上皇と堀河天皇との間で、政治的な判断が対立することさえありました。また、天皇は和歌や管弦など芸術面にも秀でていましたが、病弱なのが災いをして、29歳で帝位のまま亡くなり、次代の鳥羽天皇が即位することになります。

円融天皇火葬塚さて、一条・堀川天皇陵からさらに坂道を上っていくと、円融天皇火葬塚があります。火葬塚ですので、円融天皇陵はまた別な場所に設けられていますが、こちらが朱山七陵の最後の一つです。円融天皇は一条天皇の父で、在位期間は藤原氏の同族間争いの時期でもありました。藤原道長の父である兼家と、その兄・兼通との骨肉の争いも凄まじいものがありますので、どこかで機会があれば書いてみたいと思います。

一条・堀河天皇陵からの絶景最後になりましたが、なぜこの場所に円融天皇以下の陵墓が設けられたのか。実は、現在の龍安寺の敷地は、かつて円融天皇が築いた「円融寺」というお寺の跡です。睡蓮や蓮が美しい龍安寺の鏡容池も、元は円融寺の苑池であったともされます。円融天皇の前には、光孝天皇と宇多天皇による仁和寺の造営がすぐ隣で行われていて、この辺りに寺院を設けるという前例はありました。

一条・堀河天皇陵からの仁和寺五重塔また、円融寺の後には、一条天皇の円教寺、後朱雀天皇の円乗寺、後三条天皇の円宗寺が辺りに営まれ、円融天皇から見て子→孫→曾孫へと、代々寺が造営されていきます。この4ヶ寺は、いずれも名前に「円」がつくため「四円寺」と呼ばれています。最初の円融寺には五重塔もあり、四円寺は仁和寺に属する寺院として繁栄し、関係する天皇がこの地の裏山で火葬をされ、あるいは埋葬をされていったのです。

一条・堀河天皇陵からの絶景四円寺は天皇の墓を守る「陵寺」としての役割を持っていましたが、時代の流れとともに衰え、平安時代の終わりに藤原氏が土地を手に入れると徳大寺を創建。公家の徳大寺家も起こります。さらに室町時代になると、徳大寺は応仁の乱の東軍の大将として有名な細川勝元の手に渡り、新たに龍安寺が創建されていくのです。以上、長くなりましたが、龍安寺のルーツとも繋がっていく朱山七陵。歴史好きな方は、頑張って山に登り、絶景を眺めながら歴史を偲ぶのも「通」かもしれません。機会があれば訪れてみて下さい。

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ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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