建仁寺 正伝永源院

正伝永源院
建仁寺の正伝永源院が、12月1日まで特別公開されていました。紅葉の時期は初公開です。

正伝永源院しばらく紅葉の記事を中心に書いてきましたが、11月も様々な興味深い行事や素晴らしい場所を訪れてきました。今日から少しづつ、備忘も兼ねて記事を書いていきたいと思います。今回は建仁寺の正伝永源院。と聞いて、すぐに場所が思い浮かんだ方は地元の方が、京都や歴史に詳しい方でしょう。普段は非公開の寺院で、場所は建仁寺の北、祇園にあります。

正伝永源院寺は元は正伝院と永源庵の二つの寺でした。正伝院は鎌倉時代に創建後、荒廃しましたが、信長の弟である織田有楽斎(うらくさい)が再興し、茶室・如庵を創建。有楽斎は正伝院で天寿を全う、墓も残されています。茶室・如庵は有楽斎の代表的な茶室で国宝。現在は愛知県の犬山に移築されています。実は、明治初期の廃仏毀釈の折り、正伝院の土地は上げ地となり、建物は売却の上、そのお金の寄付を強要され、如庵は一般に払い下げられてしまったのです。やがて明治41年に三井家の手に渡り、最終的には昭和47年に犬山の現在地に移されています。

正伝永源院 如庵現在の正伝永源院には、如庵を忠実に模した茶室があります。平成8年に完成したもので、「如庵」の額は細川護貞氏の揮毫。実は、永源庵のほうが細川氏の代々の菩提寺で、廃仏毀釈の際に永源庵が廃寺となり、その土地に正伝院が移ってきた後、時の侯爵である細川家の由緒により名前だけが正伝永源院として残されることになりました。苦難の歴史を持つお寺です。

正伝永源院正伝永源院は春にも特別公開がありましたが、秋の公開は初めてとのことでした。本堂(方丈)の中央の部屋(室中)には狩野山楽の蓮鷺図が残り、人の一生を蓮の花で表現をしています。有楽斎の像も生き写しのように見せて頂くことができました。そして、左右の部屋には細川護煕氏が絵を描いた襖がはまっています。細川護煕氏は本当に多才ですね。山楽の絵と、細川護煕氏の絵が同じ建物で見られるというのも、なかなか他ではない光景でしょう。

正伝永源院お庭は中心の松が印象的で、その両側に美しい楓が色づいていました。秋は初公開でしたが、人は途切れることなく訪れていました。やはり人通りの多い祇園ということでしょうか。運よく室内からのお庭の写真を撮ることができました(笑)今後の公開は未定とのことですが、また公開される際は是非訪れて頂ければと思います。

正伝永源院 有楽斎の墓余談ですが、織田有楽斎は正式には織田長益といい、信長の弟でありながら、信長とはまた違った活躍をした人物です。信長とは13歳も年が離れていたため、信行らのように後継を争うことはなかったよう。信長公記にその名前が出てくるのは35歳からで、前半生はよくわかっていません。長益は「武」の面では目ぼしい活躍はなく、本能寺の変を運よく潜り抜けると、御噺衆(おはなししゅう)として秀吉に仕え、やがて「文」の世界で頭角を現します。このころ剃髪して有楽斎と称しました。

正伝永源院 有楽斎の妻の墓有楽斎は、千利休の弟子として茶の湯にも精通し、秀吉が亡くなると、徳川家に接近。関ヶ原の戦いでは家康方に付き、石田光成の部下を打ち取るなどの武功をあげて所領を加増されています。その後は、豊臣方の大名として徳川家との間を取り持つなどしますが、大坂の夏の陣が始まる前に大阪城を出て隠棲してしまいます。実はこの隠棲は家康方との事前の相談があったとされ、豊臣家が滅亡した後も、所領は安堵されています。

正伝永源院 細川家歴代の供養塔茶の世界では、古田織部の死後、第一人者となり、有楽流の祖ともなりました。晩年は正伝院で過ごしています。有楽斎は実はキリシタンで、その洗礼名が「ジョアン」といいました。如庵の創建(1618年)よりも洗礼の方が先ですので、如庵の名は洗礼名から来ているとする説もあります。また東京の有楽町は、有楽斎が屋敷を設けたことに由来し、好んだ椿は有楽椿の名でも知られています。信長とはまた違う方面で名を残した人物ですね。

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ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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