瓜生山 地蔵信仰と城跡

瓜生山 奥の院
狸谷山不動院の奥の院があるのが、標高301mの瓜生山の山頂です。東山三十六峰の一つでもあり、城跡でもあります。

瓜生山 奥の院以前ご紹介した狸谷山不動院の三十六童子めぐりの終着地である奥の院は、瓜生山(うりゅうさん)の山頂にあります。標高301mの平坦なその場所にはお堂が立っていて、現在は奥の院の幸龍(こうりゅう)大権現がお祀りされています。瓜生山という、ちょっと変わった名前の由来は、播磨国から祇園へ移る際に牛頭天王がこの地にも降臨し、その牛頭天王が木瓜(きゅうり)を好んだことにちなむからだそう。牛頭天王と瓜とくれば、知恩院の七不思議の一つ「瓜生石」が思い出されますし、播磨から祇園への話は、八坂神社の創建伝説の一つでもあります。

瓜生山 勝軍地蔵の石室跡瓜生山は別名、勝軍山とも呼ばれます。近江の戦国大名・六角定頼が山頂に安置した勝軍地蔵にちなみ(細川高国が安置とも)、勝軍地蔵は江戸時代に入っても疱瘡除け・厄除けのご利益で人々から信仰されました。しかし険しい道もある山に登るのは大変であろうという心遣いから、宝暦12(1762)年に、より里に近い勝軍地蔵山(ハプテスト病院の西山)に移されました。現在の瓜生山頂には、奥の院のお堂の裏にかつて地蔵を安置した石室が残され、比較的新しい地蔵の小像が安置されています。勝軍地蔵を信仰すれば戦いに勝ち、飢饉や前世からの災厄も逃れることができるとして、武士のみならず庶民からも篤い信仰を集めました。京都では愛宕山の勝軍地蔵への信仰も有名です。

瓜生山 勝軍地蔵の石室跡の地蔵また、山頂は城としても使われた時代がありました。応仁の乱以降の戦乱期に度々城郭が築かれ、南の如意ヶ岳(大文字山)とともに、足利将軍家、管領の細川家、三好長慶、松永久秀らが攻防を繰り返しました。東山を越えればすぐ近江国という立地上、重要な場所だったのです。城は勝軍山城、あるいは北白川城、瓜生山城とも呼ばれていました。

瓜生山頂勝軍山城は、細川高国によって永正17(1520)年に初めて砦を構えられたと伝わり、六角定頼や細川晴元の管理を経て、天文15(1546)年に、足利12代将軍・足利義晴が都の人扶を総動員して城郭を大幅に改修しました。しかし翌年、対立していた細川晴元の家臣である三好長慶が攻め寄せ、大御所となっていた義晴と13代将軍の義輝は、勝軍山城を焼き捨てて、近江坂本へと脱出しました。

瓜生山への山道混沌とする時代の中、勝軍山城はその後も度々戦いの舞台となり、信長の比叡山焼き討ちの前年には、明智光秀が比叡山の見張りとして入っていますが、信長が京都を支配すると役目を終えて廃城となりました。このように勝軍山城は、京都近郊で歴史に名を残している城の一つです。現在の静けさからは想像することは難しいものの、現地を辿れば城跡の遺構が見つかり、詳しい方によるとその残りは良好なのだそう。京都にも戦乱の時代があり、周りの山にはこうして城や砦が築かれていたのですね。

京都一周トレイルの案内板瓜生山へは、狸谷山不動院から三十六童子めぐりを経て奥の院を目指す道と、京都一周トレイルのコースから足を延ばす道とがあります。トレイルコースも案内板が充実していますので、天候が悪くなければ安全に行くことができると思います。機会がありましたら、歴史と自然を感じる道へと足を延ばしてみて下さい。

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ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年以上。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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