特別公開中の頂妙寺

頂妙寺 多聞天
二条川東にある頂妙寺が「京の冬の旅」で3月18日まで特別公開されています。

頂妙寺 持国天頂妙寺は御池大橋の東詰から1本北側の仁王門通を東へ入った場所の北側に建つお寺です。境内には仁王門通の名前の由来となった門があります。一般的に仁王門といえば、阿形(あぎょう)・吽形(うんぎょう)で知られる、筋骨隆々な仁王様・金剛力士がいらっしゃる門ですが、頂妙寺の仁王門にいらっしゃるのは、持国天と多聞天です。ということで厳密には「二天門」となります。ただ、二天には仁王の意味もあるため、二天門でも仁王門でもどちらも用法としては正しいことになります。少々ややこしいですが、仁王門といっても仁王様(金剛力士)のいない門もあります。

頂妙寺 仁王門頂妙寺の仁王門の持国天と多聞天は、運慶・快慶の作とされます。何度も火災に見舞われた頂妙寺では、とっさに像の首だけを持って逃げることもあったそうで、今でも首だけが当時のものとのこと。向って右が持国天、向って左が多聞天で、古くから人々の信仰を集めてきました。それぞれ腕を掲げ、金剛力士に負けず劣らずの力強さと威厳を持った像です。特別公開中は像にライトも当てられていて、普段よりもその姿を見やすくなっています。

頂妙寺 秀吉の許し状また、仁王門には豊臣秀吉から布教を許された時に拝領した許状の扁額が掲げられています。「布教を許された」ということは禁止をされた時期がありました。戦国時代、織田信長は安土城に浄土宗と法華宗(日蓮宗)の僧侶をそれぞれ集め、問答をさせます。その中には当時の頂妙寺の高僧も入っていましたが、結果的に法華宗が破れ、以後他の宗派への布教を行わないことを誓わされたのでした。しかし、信長が本能寺の変で討たれて秀吉の時代になると、再び布教を許されます。布教ができる喜びを広く京都中に示すのがこちらの扁額。「豊臣太閤秀吉」の文字を読むことができます。

頂妙寺 俵屋宗達の墓今回、頂妙寺は琳派の俵屋宗達ゆかりの寺として特別公開されています。墓地には宗達と伝わる墓があり、宗達が描いた「牛図」が公開されて目玉となっています。濃さの違う墨を用い、下地が乾かないうちに次の色を落とす「たらしこみ」の技法で牛の逞しい筋肉を表現した絵で、立ち牛と臥牛とが、前期・後期で入れ替えて公開されています。なお、宗達の墓は石川県にも残されていて、実は宗達は晩年も出自も詳しくは分かっていない人物です。しかし、本阿弥光悦に見出され、その個性あふれる作風は当時から高い評価を得ていました。今年は琳派400年として様々な場所でその絵が注目されていますので、この機会にご覧になってみてください。

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