東福寺の最勝金剛院と九条兼実の墓

最勝金剛院 九条兼実の墓
東福寺の西に塔頭の最勝金剛院があります。参道はカエデが美しく、奥に進むと鎌倉初期に権勢をふるった九条兼実の墓(廟)があります。

最勝金剛院 九条兼実の墓東福寺の法堂の東に参道が続くのが最勝金剛院。参道の紅葉の美しさは格別ですが、先へ進むと墓地になりその中に九条兼実の立派な墓(廟)が整えられています。といっても看板や由緒書きはないため、多くの方がそのことを知ることなく去っていく場所でもあります。

最勝金剛院九条兼実は、藤原氏から分かれた五摂家のひとつである九条家の祖として知られる公卿で、子孫からは一条家・二条家も分派しています。兼実は、源平の争乱が終結して平家が滅んだ後に摂政・関白・太政大臣と権勢を極める一方、源頼朝と親交があり、頼朝と朝廷を繋ぐ重要な役割を担いました。またその日記「玉葉」も東寺の貴重な資料として名高いものです。さて、一時は朝廷を動かず立場であった兼実ですが、晩年は失脚し、法然上人を戒師として出家。政界への復帰は果たせなかったものの、法然上人が承元の法難で土佐に流罪になる際には、自身の領地である讃岐に流刑地を変更させるなど、信仰面での逸話が伝わっています。

最勝金剛院晩年の兼実は、現在の東福寺付近に営まれた月輪殿(つきのわどの)という山荘に隠棲し、その敷地内に報恩院と称する御堂を建立。承元元(1207)年に亡くなりました。墓は近くの内山に造営されたと伝わりますが、その場所は後の乱世の間に所在不明となったまま、明治時代まで判然としませんでした。

最勝金剛院しかし明治時代に九条家の血を受け継ぐ九条道孝(みちたか)が、兼実の墓所を探し出すことを悲願として、明治14年に自ら京都に訪れて詳しい調査を行い、ついに「廟跡を発見した」というのが、現在の最勝金剛院内の兼実の墓です。この廟跡は、周囲約60mほどの円墳上の高まりで、道孝はその調査にあたって幅約7mのトレンチを掘らせたところ、なんと中から約8mほどの「石棺」が発見されました。この時の石棺は実際には石室や石槨と解されていますが、いずれにしてもこの調査をもとに道孝は墳丘を九条兼実の廟跡と断定。興福寺の南円堂を模した八角の法華堂を建立して、兼実を追悼したのです。

最勝金剛院果たしてこの墳丘は本当に九条兼実の墓なのか?実は当時から異議が唱えられており、宮内庁の御陵墓掛として数多くの陵墓を踏査した経験のある大沢清臣は、兼実の墓にしては規模が大きすぎると主張しています。墳丘があり内部に石室(石槨)があるという埋葬形態は、平安時代末から鎌倉時代初めの墓の形態としては疑問があり、恐らくは奈良時代以前の横穴式の古墳だというのが妥当な見解のよう。真偽のほどはさておき、自らの祖先の墓を探しあてようとする思いがあって、現在の九条兼実の墓はあります。歴史ファンの方は、東福寺を訪れる際に足を延ばしてみてもよいでしょう。

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ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年以上。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。毎月第2水曜日にはKBS京都ラジオ「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」に出演中。「京ごよみ手帳 2016」監修。特技はお箏の演奏。

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