3月7日 京都を襲った大火と地震


3月7日は今から230年前、応仁の乱以来の大火として京都の街を焼き尽くした天明の大火が起きた日。そして91年前には京都府北部の丹後半島を震源とする北丹後地震も起きた日です。

天明の大火

今日のブログは、6年前に書いたものと同内容です。災害に対する話は何度書いてもよいと思っていますので、今回改めて加筆修正をして掲載いたします。1788年3月7日(旧暦:天明8年1月30日)、宮川町の団栗橋の東の空家で発生した火事は、「狂風」によって鴨川を越えて西へと燃え広がり、南は七条、西は千本、北は西陣まで、当時の京都市街地の大半を焼き尽くしたとされます。なぜここまでの大火事になってしまったのか?気象条件でいえば、キーワードは「強風」と「乾燥」です。まず乾燥。冬場は一般的に乾燥した状況が続きます。そして大火前の京都や周辺地域の日記に記載されている天気は、晴れ続き。つまり出火当時は乾燥していて燃えやすい状況であったことが分かります。

次に風。「狂風」という言葉は、清浄華院(しょうじょうけいん)に残されている天明の大火供養塔に付随する石碑に刻まれています。宮川町での出火の後、火は北東からの風によって南の五条辺りまで燃え広がり、そして強い風によってついに鴨川を越えて寺町通の寺院へと飛び火。そこから南と西へとに分かれて延焼して行きました。しかし、次第に風向きは南東からに変わったため、今度は北へと燃え広がり、御所や二条城が延焼するに至りました。夜になると、さらに風向きが西寄りに変わって強く吹きました。そのため西陣ではギリギリで焼け残った建物があった一方で、炎は東へと流れ、再び鴨川を越えて東山を焼きました。このように、風が強かったために鴨川を越えて西へと燃え広がり、しかも風向きが変わることで京都の街を順番に焼いて行った火事だったのです。まさに強風ならぬ「狂風」。結果的に、当時の市街地の約8割が焼けたといわれています。

上記の風向の変化や、周辺地域の日記を元にして、当時の気圧配置を検討した論文があります。それによると、日本の南海上をかなり発達した低気圧が進んで行ったことが想像されるとのこと。近年で似ていると思しき気圧配置を探してみましたが、しっくりとくるものがありませんでした。それだけ稀な気圧配置であったことは確かですが、ただ、2003年3月7日の天気図はなかなか近いものがあるかと思います。この日の京都は東寄りの風が強く、南岸低気圧の接近・通過に伴って風向は北へと変わり、翌日には強い冬型で北西の風に変わっています。ただ、天明の大火では南からも強く吹いた時間帯がある点を踏まえると、日本海に主低気圧とは別の前線があったのかもしれません。

さて、西陣の浄福寺は、目前にまで火が迫りましたが、焼け残りました。そこにはこんな伝説があります。炎がいよいよ寺に燃えうつろうかという時、ご神木のモチの木の上に、なんと鞍馬山から天狗が降りてきて大きな団扇であおぎ、火は浄福寺の赤門の前で止まったのだそう。まさにこの「天狗」の正体は、低気圧(ないし前線)の通過にともなう「風向の急変」であったのでしょう。「強風」が火災にとってどれだけ影響が大きいかを現わす逸話でもあります。現代では、奇しくもこの3月7日は、消防記念日。制定の経緯は天明の大火とは全く関係がありませんが、不思議な偶然です。

北丹後地震

一方、3月7日は、1927年に北丹後地震が起きた日でもあります。マグニチュードは阪神大震災と同じM7.3、死者・行方不明者は2925名を数えました。震源地の丹後半島では、家屋の倒壊率は7割から9割にも達する揺れの激しさ。さらに運の悪いことに、地震の発生時刻は夕方の食事時で、火災も多数発生し、旧峰山町ではなんと家屋の97%が焼失。町はほぼ全滅状態になりました。この年も大雪で、雪の多い丹後地方での救助活動は難航を極めました。当時の写真では、雪の上に布団を敷いてしのいでいるような方も写っています。

郷村断層 小池地区被災目撃者の手記「奥丹後震災記」にはこう書かれています。「激震と同時に各所より発した火災は一昼夜にわたり全街をなめつくし、圧死、焼死、見るも狂わしき無残の死体は雨雪にさらされ泥にぬれて随所に横たわっている」。そして、地震によって倒壊した建物に炎が迫り、見殺しにせざるを得なかった話もあります。どうしても手だけが抜けず、そのまま炎に飲まれていった方もいます。家族が下敷きになればすぐに助けたくなるのが人の心ですが、助けようとする間に小さかった火が大きくなって手に負えなくなってしまったという体験記もあります。本当に痛ましい、恐るべき惨状が起きていたのです。まずは、救出より先に火を消すことがとても大切です。北丹後地震についての記録は、京都の図書館であれば多くの場所に置かれています。涙なしでは読めない記録ばかりですが、京都の方には知っておいていただきたい記録です。

郷村断層 生野内地区また、山間部では山崩れ・がけ崩れが多発、90km離れた大阪でも道路の亀裂や泥水の噴出が起こりました。地震当日は高気圧に覆われて晴れていて、京都の観測値では翌8日朝6時の気温は0.6℃まで下がりました。そして春の天気は移りが早く、8日には低気圧が日本海に進んで、夕方から9日にかけてしっかりと雨が降りました。被災者は風雨や寒さで厳しい状況下に置かれていたことでしょう。

この時は地震の前に地盤が隆起するという現象が、旧網野町周辺日本海側で起こりました。地震の起こる2時間半前には、海岸が1.3mも隆起、別の場所でも80cmの隆起があったそうです。このように、地震の前には明らかな前兆現象が起こることもあります。例えば、京都でも地震の前に鳴動するといわれているのが将軍塚。実際に将軍塚が鳴り動くという科学的な証拠はありませんが、いつもと違う地鳴りのような音が聞こえたら、注意してもよいでしょう。大地震は京都にとっても他人ごとではありません。大火も地震に伴って発生する恐れがあります。過去を知り、過去から学び、そして備えをしておくこと。今一度、お考えいただければと思います。

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ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

気象予報士として10年以上。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。8年ぶりに受験した第13回京都検定で再度1級に合格し「京都検定マイスター」となる。第14回京都検定1級(合格率2.2%)に最高得点で合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。毎月第2水曜日にはKBS京都ラジオ「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」に出演中。「京ごよみ手帳 2018」監修。特技はお箏の演奏。

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