繁昌神社の茅の輪くぐり

繁昌(はんじょう)神社茅の輪くぐりが30日まで行われています。

繁昌神社(班女塚) 茅の輪

繁昌神社は、高辻通室町西入る北側に建つ小社です。平安時代、この付近には池があり、延喜年間(901年~922年)にその中島に宗像三女神を勧請したのが始まりと伝わります。宗像三女神のお一人は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、弁財天と同一視された神様です。その後、神社は真言宗の功徳院が管理し、明治初期に寺が廃寺となった後、神社が残されて現在に至ります。ご利益は商売繁盛のほか、家内安全、諸芸成就、良縁成就とされています。

繁昌神社

神社の西側の道を高辻通から北へ入ると「班女塚(はんにょづか)」があり、6月30日までこちらに茅の輪が設けられています。鎌倉時代初期に成立した宇治拾遺物語では、長門前司(ながとのぜんじ:長門国の前の国司)の娘の話が載ります。姉は人の妻となり、妹は宮仕えの後に嫁ぐことなく実家に住んでいました。やがて父母が亡くなり、27-8歳で自身も患った末に亡くなり、妻戸口に亡骸が置かれていました。

繁昌神社

やがて姉たちは亡骸を棺に入れて鳥辺野(東山の辺り)へ運びますが、棺が軽く、蓋が開いているのを見て中を覗くと、亡骸がいなくなっていました。まさか道の途中で落とすことがあろうかと引き返しつつ探すも見つからず、結局屋敷まで帰ると、妻戸口に元のように亡骸が横たわっているのです。

繁昌神社

翌日再び亡骸を棺に納めましたが、夕方には再び元の妻戸口に横たわっている。さらにもう一度棺に入れようとするも、今度は大木のように全く動きません。そこで、亡き娘はここに居続けたいのだろうと、妻戸口の板敷を壊して亡骸を埋葬し、塚を築きました。やがて家の人々は亡骸と一緒に住むのは気味が悪いとして去って行き、塚が残されたとのお話です。この場所が「班女塚」として伝わっています。

繁昌神社(班女塚) 茅の輪くぐり

さて、繁昌神社(班女塚)での茅の輪くぐりは、今年が初の試みとのこと。京北町で茅(ちがや)を頂き、もろもろ手探りだったそうですが、見事な茅の輪が登場していました。左→右→左とくぐることで半年間の罪穢れが浄められるとされます。私も無病息災を祈願してくぐらせていただきました。茅の輪くぐりは、全国各地の神社で行われていますので、30日はお近くの神社を訪ねてみていただくのもよいでしょう。なお、茅は穢れを吸い取るとされ、茅の輪の茅は抜かないのが原則。手作りで小さい茅の輪を作るための茅は、別途用意されている神社もあります(無いところもあります)。

繁昌神社(班女塚) 茅の輪くぐり

ガイドのご紹介

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京都検定1級に4年連続最高得点で合格(第14回~第17回、第14回合格率2.2%)、「京都検定マイスター」。気象予報士として10年以上。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。毎月第2水曜日にはKBS京都ラジオ「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」に出演中。「京ごよみ手帳 2020」監修。特技はお箏の演奏。

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