豊国廟からの雪景色

1月21日の大雪。豊国廟へも登ってきました。

豊国廟

豊国廟は豊臣秀吉のお墓です。三十三間堂がある七条通の東の突き当りは智積院(ちしゃくいん)ですが、そこから少し北へ行くと再び東へ向かう道が現れ、後は坂道が豊国廟の入り口へと一直線。京都女子大も途中にあり、この坂は「女坂」とも呼ばれています。「Princess Line」と書かれた真っ赤な車体が特徴のバスも走り(市バスではなく独自会社が運営)、京都駅八条口や四条河原町とを結んでいますので、京都女子大前までバスに乗ると、少し上る距離を短縮できます。

太閤坦

豊国廟は秀吉の墓ですが、死後順調に現代まで伝わってはいません。秀吉が亡くなると阿弥陀ヶ峰の山頂に墓が築かれ、現在、駐車場のある平坦地(太閤坦)には豊国神社が建てられました。阿弥陀ヶ峰の付近は鳥辺野と呼ばれる葬送地で、皇族も葬られたエリアです。秀吉は亡くなると「豊国大明神」として神になりました。その七回忌には盛大な祭礼も行われています。

豊国廟への階段

しかし、徳川の時代になり豊臣家が滅亡すると、豊国神社が廃社となりました。登り口には人々が入ることができないよう、新日吉神宮を移築してしまうのです。しかし再び日の当たる時代もやってきます。長い江戸時代が終わって明治の世に変わると、天皇を敬った秀吉の功績が再評価され、全国の支援者によって現在の豊国廟が築かれました。

豊国廟途上の平坦地

さて、太閤坦まで行き、社務所で100円のお金を払って階段を登ります。段数は合計で489段あります。大雪の日ではありましたが、昼頃の階段は十分に登れました。延々と続く長い階段を、見えている頂上まで登ってもまだ先があり、平坦地を経てさらに急な階段が待ち構えています。大きく分けると2段構えですので、登ろうか迷われる方は本当によく考えてから登られることをお勧めします。この日の山中はまだ雪が残り、美しい光景でした。

豊国廟への階段から

頑張って登っていくと、頂上に建つ伊東忠太の設計による大きな五輪塔までたどり着きます。ここが秀吉のお墓です。明治期の整備の際に埋葬地を掘ると、3尺弱の粗末な壺の中から、西向きに手を組んで座るミイラ化した秀吉と思しき遺骸が見つかったという話があります。遺骸は風化もあって壺を取り出す際に遺骸がバラバラに砕けてしまいましたが、遺骨は集められ丁寧に埋葬されたとのこと。秀吉を偲ぶことができる場所ですので、静かにご参拝ください。

豊国廟からの眺め

五輪塔に向かって左手側へ進むと、清水寺や京都の街が一望できるようになっています。清水寺を望むまさに抜群の眺望で、ご褒美のような景色です。まだ雪が舞っており、清水寺や市街地がかすんで見えたため、雪が弱まるまでしばらく待ちました。やがて少しだけ太陽の光が差し、京都を包む雪景色が清水寺越しに望めました。雪の日は足元に十分な注意が必要ではありますが、私の他にも登る方の姿がありました。雪の日は自己責任で、お怪我の無いようにご注意ください。

豊国廟からの清水寺

なお、社務所の近く、階段を登る手前を左に行ったところには秀吉の孫・国松と、秀吉の側室・松の丸殿(京極龍子)の墓があります。国松は秀頼の子で、大坂の陣の最中に大阪城から脱出しますが伏見で捉えられ、六条河原で斬首されました。僅かに8歳だったといいます。もとはこのお墓は、新京極にある誓願寺の境内にありました。

豊国廟からの清水寺

しかし、新京極や寺町の開発に伴ってお墓の周りは繁華街となってしまい、取り残されていた二人の墓を不憫に思った人たちが豊国廟のたもとのこの場所にお墓を移しました。今はひっそりと眠っています。こちらもぜひご参拝ください。

国松と松の丸殿の墓

ガイドのご紹介

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京都検定1級に4年連続最高得点で合格(第14回~第17回、第14回合格率2.2%)、「京都検定マイスター」。気象予報士として10年以上。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。毎月第2水曜日にはKBS京都ラジオ「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」に出演中。「京ごよみ手帳 2022」監修。特技はお箏の演奏。

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