千本釈迦堂 おかめ福節分会


3日午後には、千本釈迦堂でおかめ福節分会が行われました。

千本釈迦堂は西陣にあるお堂の通称で、お寺の正式名は大報恩寺です。かつては200mほど東の千本通まで境内地があったため、千本釈迦堂と呼ばれるようになりました。本堂は1227年の建造で、京都市街地で最も古い建物として知られています。この「京都市街地で」とは、言いかえると「洛中で」ということ。洛中でということは、秀吉が築いた「お土居の内側で」という解釈になるでしょう。京都市街地で最も古いというのはやや分かりにくい表現です。現在の京都市(や京都府)全体で最も古いのは醍醐寺の五重塔で、平清盛の時代よりもさらに200年ほど前の951年に建てられたものです。今から見て200年前は江戸時代ですので、清盛の時代にはすでに古い建物であったはずですが、それを現在でも見られるとは奇跡というほかありません。

もちろん千本釈迦堂も、応仁の乱の戦火、数々の大地震、江戸時代の4つの大火でも燃えなかったという奇跡の中の奇跡ともいえる存在。周辺は焼けても本堂だけは焼け残り、リスクの高い街中で残っていることに、大いなる価値があるのでしょう。仏像や宝物などは人が力を合わせれば動かせるものが多いのですが、建物ばかりはそうは行きません。こうして残っていることをありがたく見ないわけにはいきませんね。

さて、この創建当時からの本堂は「おかめさん」の伝説で知られています。建設の責任者であった大工の棟梁は、内陣の四隅に立てる柱の一本を誤って短く切ってしまいました。困り果てた夫の姿を見かねた妻のおかめさんが、残りの木も短く切って、上に「斗栱(ときょう、ます)」を乗せてはどうかと提案します。その見事なアイデアで無事に本堂は上棟式を迎えるのですが、そこのおかめさんの姿はありません。実は、おかめさんは妻が助言をしたと知れては世間の恥と考え、自害をしてしまっていたのです。夫の棟梁は、妻への感謝と冥福を祈るため、上棟式の日におかめさんの顔をかたどった面を付けた扇御幣を奉納したといわれています。

内助の功の典型ともいえるこのお話、実は賛否両論あります。が、ここでは省くとして、おかめさんが助言をして完成したという内陣の柱とその上の斗栱は、今でも本堂を拝観すると見ることができます。また本堂向って右手側にはふくよかなお顔をしたおかめさんの像(おかめ塚)があります。おでこは張って智恵を表し、口は小さく余計なことをいわないなど、その表情にも様々なお話があります。また、本堂前の地面まで枝が伸びた地ずりの桜は「おかめ桜」と呼ばれて、春にはおかめさんがお花見をしているかのような美しい光景を見ることができます。少し早咲きの桜で、ソメイヨシノより前に花を開きます。

さて、節分会のお話。千本釈迦堂の節分祭は、以上のようなおかめさんのお話にちなんで、なんと鬼をはらうのは、おかめさん!狂言の茂山社中の皆様によりその様子が奉納されますが、これが大変面白い。何が面白いかというと、普通に豆をまいても鬼は退散しません(笑)豆があるうちは五分五分の攻防、豆が切れると撒き手は鬼にやっつけられてしまいます!さあ大変、どうしよう!っという時に登場するのがおかめさん。見事な神通力で鬼を追い払ってしまいます。見事見事。以上の様子は動画もありますので、是非ご覧ください。

また、この日はおかめさんの像がある塚の前で法要も行われ、おかめさんの像には着物が着せられ、傘もかけられます。まさに晴れ姿とでもいうところでしょうか。本堂の鬼登場の前には、番匠保存会による木遣(きやり)音頭も奉納されます。木遣音頭は棟上げの時にも歌われますので、千本釈迦堂とも縁があるのでしょう。

鬼が退散した後の豆まきでは、たくさんの豆が撒かれます。ちなみに昨年は「まゆまろ」も本堂に上っていましたが、今年はいませんでした(笑)そのかわり(?)、かわいらしいお子さんからも撒いて頂くことができました。それにしても、普通に豆をまいても鬼が追い払えないというユニークな節分行事。本堂が現在まで残っているのは、あらゆる厄を寄せ付けぬおかめさんの力によるということですね。機会がありましたら是非ご覧になってみて下さい。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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