六孫王神社と清和源氏 新幹線が見える境内

東寺の近く、新幹線の沿線に六孫王神社(ろくそんのうじんじゃ)があります。清和源氏の祖とされる源経基(みなもとのつねもと)を祀る神社です。

六孫王神社と清和源氏

六孫王とは源経基のことで、父親の貞純親王(さだすみしんのう)が清和天皇の第六皇子であり、経基が清和天皇の「孫」にあたることから名付けられました。この地は経基の邸宅跡で、子の源満仲(みなもとのみつなか)が父を祀ったのが始まりと言われています。神社内に経基のお墓もあります。
経基は、平将門や藤原純友の反乱(承平天慶の乱)にも関わり、満仲は武士団を組織して清和源氏としての基礎を確立。子孫も数々の武功を挙げて、後の源頼朝らへとつながっていきます。

陽成源氏説

しかし、通説とされている「清和源氏」は、実は陽成天皇(ようぜいてんのう)を祖とする「陽成源氏」だとする説も有力です。経基の父は貞純親王ではなく、陽成天皇の子である元平親王であると言うものです。
経基の孫に当たる源頼信は、石清水八幡宮に願文を残しています。その文中に自身の出自が書かれており、それが陽成天皇の子孫であると言うもの。後に彼の子孫たちが、陽成天皇の子孫ではなく清和天皇の子孫と名乗るようになったのは、陽成天皇があまりに乱行ぶりが目立つ人物だったからです。具体的には、宮中で殺人事件(殴殺)を起こしたこともあります。数々の乱行ぶりから、当時の権力者・藤原基経に政治をボイコットされてしまい、9歳で即位しながら17歳で退位するに至りました。源氏が合戦の前に自身の出自を名乗る時、「我こそは乱行ぶりで知られる、かの陽成天皇の子孫なり」とはとても恥ずかしくて言えなかった。そこで、系譜を付け変えて清和源氏と名乗ったと、その説は述べています。
私の手元にある本では、その筆者は「現在、この考えがほぼ定説となっている」と文中で述べています。ただ、もう25年も前の本。現在のWikipediaによると、石清水八幡宮の願文については「この文書は写本であり、告文の裏面に校正したと但書きがあることから信憑性が疑われている。」としています。
どちらが正しいかは別として、歴史とは様々な解釈が成り立つもので、歴史の定説も時代時代の研究によって変化するものだと教えてくれる話です。確実な証拠がなく証明ができない以上、何が本当に正しいかはこの先もわからないかもしれません。

新幹線が見える境内

さて、六孫王神社の境内は計3回も鉄道によって浸食されています。明治時代に2回。2回目の東海道線の建設に伴って、すぐ北にあった源実朝ゆかりの遍照心院(へんじょうしんいん)と呼ぶお寺も移転してしまいました。現在は大通寺として九条大宮の南にあります。昭和の時代に、新幹線の建設でさらに狭くなった境内。新幹線はこの神社の旧境内地を、今日もゆっくりと走っています。
また、境内の池にはカルガモの親子もいます。子ガモはとてもかわいく近所の親子連れが見に来ていました。

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