北朝 持明院の跡


日本の南北朝時代と言えば、南朝は大覚寺統、北朝は持明院統と言います。大覚寺は現在も嵯峨野の地に大沢池とともに残っており、観光地としても有名です。一方の持明院はどこにあったのか?今日はその跡地です。
学生時代、歴史を学びに京都にやってきた私は、上記のことを素直に思いました。しかし、持明院というお寺は見当たらない。でもあるとき、突然この石碑に出会いました。それも大学のすぐ近く。「まさかこんなところに!」と、一人喜んだことを思い出します。以下、今回は歴史好きの方向けの記事になります。
持明院は藤原基家の邸宅で、祖父基頼が建立した持仏堂に名前は由来します。基家の娘が後高倉院の妃であった縁から、持明院は後高倉院・北白川院(基家の娘)・後堀河上皇の御所となりました。その後、後嵯峨天皇の息子、後深草上皇系統の御所となり、その系統は「持明院統」と呼ばれるようになりました。なお、後高倉院は後鳥羽上皇の弟にあたり、承久の乱で後鳥羽上皇が失脚ののち、朝廷の実権を握った人物です。
持明院は1353年に炎上し、その後は荒廃していまいます。ちなみにこの頃の歴史は日本史の教科書にも詳しく載らないほどぐちゃぐちゃで、持明院の焼失もその混乱の中で起こったのでしょうか。
具体的には、1351年に足利尊氏・義詮は、義直への戦いを有利にするため南朝に降伏。しかし南朝側が勢力を盛り返し、北朝の天皇は廃位。北朝の三種の神器は南朝に没収されます。つまり一時的に南北朝は統一されています(正平一統)。さらに南朝は、尊氏の征夷大将軍を解任!南朝に攻められた義詮は近江へ敗走。北朝の三人の上皇と皇太子までもが南朝に捕われてしまう。・・・といったようなえらいことが実は起きています。
現在、跡地には光照院というお寺がありますが、通常非公開です。光照院は1356年に後伏見天皇の皇女によって創建されたのが始まりで、応仁の乱で荒廃しますが、持明院の跡地に再建されました。その後は、代々皇女が入寺する尼門跡寺院として続きました。なお光照院は京都の椿愛好家の間では、名所としても知られています。
また、持明院の南側には足利義満が建てた「花の御所」がありました。北朝の本拠地・持明院のほど近くというのは、やはり歴史上の理由があるのでしょう。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として9年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。散策メニューはこちらから

より大きな地図で 北朝 持明院の跡 を表示

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です