萩の隠れ名所 豊国廟


京都の萩の隠れ名所に豊国廟(ほうこくびょう)があります。

豊国廟は豊臣秀吉のお墓です。三十三間堂がある七条通の東の突き当りは智積院(ちしゃくいん)ですが、そこから少し北へ行くと再び東へ向かう道が現れ、後は険しい坂が豊国廟へと一直線。京都女子大も途中にあり、この坂は「女坂」とも呼ばれています。「Princess Line」と書かれた真っ赤な車体が特徴のバスも走ります(独自会社が運営)。豊国廟へは2度ほど行っていますが写真が無く、改めて行こうとは思いつつもさすがに夏の時期は避けていました。と言うのも、豊国廟への階段は京都でも有数の険しさだからです。涼しくなったこの日は自転車で女坂を登り切り、そこから階段にのぞみました。

さて、その前にここは萩の隠れ名所でもあります。豊国廟に登る前にある社務所の裏手付近に密集して咲いていて、手入れはあまりされていなさそうですが、見事さは有名寺社にも引けを取らないと個人的には思います。この日はモンキチョウが舞い、穏やかな空気に包まれていました。廟に登る人はまばらで、私のいた時間帯は景色を一人占め。ここは車であればすぐに来られ、駐車場もありますのでお勧めです。自転車や徒歩はあまりお勧めはしませんが、京女の学生さんなどは近くですので見に行かれてもよいでしょう。恐ろしい階段は登らなくてもよい場所です。

豊国廟は秀吉の墓ですが、死後順調に現代まで伝わってはいません。秀吉が亡くなると阿弥陀ヶ峰の山頂に墓が築かれ、現在、駐車場のある平坦地には豊国神社が建てられました。阿弥陀ヶ峰の付近は鳥辺野と呼ばれる葬送地で、その南端には泉涌寺があり歴代の天皇が埋葬されています。秀吉は内裏の跡地に聚楽第を建てており、自らの墓は天皇家の墓に近くさらには見下ろすこともできるこの阿弥陀ヶ峰の山頂にと遺言したのではないかと想像できます。秀吉は亡くなると「豊国大明神」として神になりました。その七回忌には盛大な祭礼も行われています。

しかし、徳川の時代になり豊臣家が滅亡すると、豊国神社だけでなく秀吉の墓もめちゃめちゃに破壊されました。登り口には人々が入ることができないよう、新日吉神宮を移築してしまうのです。時代とは残酷なもの。しかし再び日の当たる時代もやってきます。長い長い江戸時代が終わり明治の世に変わると、天皇を敬った秀吉の功績が再評価され全国の勇士によって現在の豊国廟が築かれました。なお、この際に秀吉の遺骸が見つかったそうですが、取りだす際に崩れ去ったと言われています。ともあれ、大きな五輪塔で墓は再建されて現在に至っています。

さて、社務所で50円のお金を払って階段を登ります。段数は合計で489段あり、数えながら登る方が気晴らしになってよいかと思います。登り口から延々と続く長い階段を、見えている頂上まで登るとゴール!!…ではなく、そこから平坦地を経てさらに急な階段が待ち構えています。大きく分けると2段構えですので、登ろうか迷われる方は本当によく考えてから登られることをお勧めします。でないと、中間の平坦地で落胆する方もきっといるはずです。

頂上には五輪塔があるのみで、特に眺望がよいわけでもありませんが左裏手側にまわると阿弥陀ヶ峰山頂の道しるべもあります。どうやら地元の保育園の子どもたちがここへ登ってきたようです。すごいですね。西日に輝く豊国廟を見ていると「日輪の子」といわれた秀吉のイメージにぴったりな気がします。

また、萩の咲く社務所の近く、階段を登る手前を左に行ったところには秀吉の孫「国松」と、淀殿に次ぐ側室「松の丸殿」の墓があります。松の丸殿は「京極龍子」として大河ドラマの「江」にも出ていますね。国松は秀頼の子で、大坂の陣の最中に大阪城から脱出しますが伏見で捉えられ、六条河原で斬首されました。僅かに8歳だったと言われています。

もとはこのお墓は、新京極にある誓願寺の境内にありました。しかし、新京極や寺町の開発に伴ってお墓の周りは繁華街となってしまい、取り残されていた二人の墓を不憫に思った人たちが豊国廟のたもとのこの場所にお墓を移しました。今はひっそりと眠っています。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として9年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。散策メニューはこちらから

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