平治の乱 歴史舞台の今 その1


大河ドラマ平清盛ではいよいよ平治の乱が勃発します。今回はそのゆかりの地の今を取り上げます。

平治の乱は保元の乱とのセットで覚えられることが多いですが、この二つの戦乱を経て平清盛に対抗できる勢力が無くなり、平家は勢力を大いに伸ばして行くこととなります。以下、大河ドラマの筋書きとは異なる部分もあると思いますが、大よその物語です。保元の乱の後、政治を動かしたのが阿部サダヲさん演じる信西(しんぜい)でした。彼は保元の乱で最も活躍した源義朝(玉木宏さん)を取り立てず、対する平清盛(松山ケンイチさん)を播磨守に任じて恩賞に差をつけました。源氏方は保元の乱で為義(ためよし:小日向文世さん)が斬られ、強弓で名を馳せた為朝(ためとも:橋本さとしさん)も流罪となるなど大きな代償を払ったにも関わらず、その痛みが報いられることはありませんでした。

焦る義朝に近づいたのが、貴族・藤原信頼(のぶより:塚地武雅さん)。信頼は藤原の名を持っていはいますが、藤原忠実(ただざね:国村隼さん)や忠道・頼長(山本耕史さん)といった摂関家の嫡流からは遠く離れた人物で、しかも文武に秀でているわけでもありませんでした。ただ、後白河上皇(松田翔太さん)に気に入られ、その厚い信認のみで破格の出世を果たした人物です。そんな人物だからこそ、信西は高い位は相応しくないと上皇をいさめるわけです。信頼は出世の邪魔をされたことを恨み、さらには信西さえいなければ自分の思うままに振る舞えると野心さえ抱くようになって、ついには信西を滅ぼそうと画策します。そこで目を付けられたのが、武力がありながらも不遇であった源義朝。彼に悪魔のささやきをすることで、信西を倒すクーデターを試みました。これが平治の乱の発端です。

信西には平清盛率いる平家の軍事力が味方にありましたが、清盛らが現在の和歌山県にある熊野詣でへと出かけている隙を狙い、義朝らはクーデターをしかけたのです。義朝の軍は、現在の三条通の北・烏丸通りの東にあった御所・三条東殿を取り囲むと、後白河上皇らを連れ出して二条天皇がいる内裏の一本御書所へと移し、三条東殿には火をかけます。この三条東殿のあり様はむごいもので、後白河上皇に仕えていた者たちは信西の一族と疑われてことごとく殺され、火を逃れようとしたものは井戸に逃げ込んで、そのまま大勢が亡くなりました。後の論功行賞では、大きな働きをしたのだから三条東殿の井戸にも官職を与えるべきだと、冗談で言われるほどの状況でした。

混乱のうちに、姉小路西洞院にあった信西の屋敷も焼失。ただ信西は事前に危険を察知して既に所領のあった宇治田原へと逃げ伸びていました。しかし信西は、乱がおこったことを知ると上皇の身代わりとならんとして、土に穴を掘り自分をその中に埋めさせて自害をしてしまうのです。やがて敵方に掘り出された信西の遺体は首を切られ、都にさらされました。・・・こうして上皇や天皇を手中に収めて、信頼と義朝のクーデターは成功。義朝は、清盛が保元の乱後に任じられたのと同じ、播磨守を手にしたのでした。

さて、この戦いの現在地はどこか。炎上により大変な惨劇が起きた三条東殿は、烏丸御池駅近くの新風館やNTTのある場所。新風館北西の角に石碑が残されています。そこから少し離れた姉小路西洞院にあった信西の屋敷跡には石碑類は何もありませんが、現在は甘味処・丸久小山園の西洞院店があります。奇しくも信西が最期を迎えた宇治田原はお茶の産地です。信西が新しい国造りの夢を描いたこの場所で、お抹茶味の甘味を頂きながら信西を偲ぶのがお勧めです。後白河上皇らが連れて行かれた一本御書所は、現在の山中油店の付近。こちらは水車の近くに石碑が残されています。ちなみに保元の乱の舞台となった高松殿の跡に立つ高松神明神社は、新風館と丸久小山園のちょうど間にあります。併せて訪れてみてもよいでしょう。・・・信西を滅ぼし、上皇も天皇も手中に収めて、大成功したかに見えたクーデター。ここから清盛の逆襲が始まります。そのゆかりの地については、また近いうちにブログに書きたいと思います。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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