聖宝と醍醐寺発祥の上醍醐


今回と次回は、京都近郊では愛宕山に次ぐ険しさの上醍醐をご紹介します。

先日、2年ぶりに上醍醐へと登って来ました。金堂や五重塔がある下醍醐からは山道をおよそ1時間。往復約2時間の道のりです。山頂の開山堂は標高450mですので、愛宕山(924m)のおよそ半分の山ということですね。ただ、ケーブルや自動車でも簡単に行けてしまう比叡山などに比べると、たどり着くためには自らの足に頼る他なく、慣れない方にとっては非常に険しい道のりではないかと思います。

そのため登山口の女人堂での入山受付時間も決まっており、冬期(11月末~2月末日)で、午前9時~午後3時まで。夏期(3月1日~11月末)で、午前9時~午後4時までとなっていて、午後5時までに下山することも求められています。入山料は下醍醐の伽藍拝観とは別に600円が必要です。つまり、下醍醐の伽藍(拝観料600円)を経て上醍醐に行く場合は、合計1200円が必要となります。ただ、下醍醐入口の山門前から右手(南)に曲がり、伽藍を回り込んで上醍醐入口の女人堂へ行く道もありますので、上醍醐のみを目指す方はこちらを通るとよいでしょう。

醍醐寺は、京都近郊にありながら山岳寺院としての形態をよく残している寺です。山科では、毘沙門堂の近くにある安祥寺もかつては山上山下の大寺院でしたが衰退してしまいました(お寺は存続しています)。余談ですが、現在、安祥寺の五智如来像は京都国立博物館に寄託され、かつて安祥寺の金堂にあった五大虚空蔵菩薩像は室町時代に東寺の観智院に移されて、春秋に公開されています。美しい仏像ですので機会があったらご覧になってみて下さい。

上醍醐は醍醐寺の原点で、寺名の由来となった醍醐水があり、平安時代に醍醐天皇が勅願寺とした際に建てられたのも、上醍醐にある薬師堂です。薬師堂には平成13年まで国宝の薬師三尊像(本尊の薬師如来像とは異なる)が、安置されていましたが、現在は霊宝館に移され、その見事な姿はさほど苦労無く見ることができます。また、西国三十三ヵ所観音霊場の中でも「最難所」とされた上醍醐の准胝堂も、2008年に落雷によって焼失し、再建までの期限付きながら現在は下醍醐に札所は移され、上醍醐まで登る必要はなくなりました。

このようにかつてほど訪れる方は少なくなっている場所ではありますが、現在でも数々の国宝・重要文化財の御堂が並び、五大堂には五大明王像も安置されています。険しい山道を越えてたどり着けばこそ、山上で出会う仏の姿には「ありがたみ」があるように思います。

醍醐寺は、貞観16(874)年に、理源大師・聖宝(しょうぼう)が上醍醐に准胝堂と如意輪堂を創建したことに始まります。聖宝は讃岐国の本島に生まれ、やがて空海の弟・真雅の元で出家します。空海も真雅も讃岐国出身であったため、聖宝は身近に感じていたのかもしれません。そして東大寺で修業をしますが、当時の東大寺は既に荒れ始めていて、聖宝が入れられた部屋は鬼がいると言われていた部屋でした。聖宝はこの鬼を見事に退散させて修行に励んだといいます。

あるとき、あまりに修行僧たちの食事が粗末なので、ケチだった東大寺の上座僧に「どうすれば食事を配って頂けるか」と賭けをします。その内容が、賀茂祭りの日にふんどし一丁で干鮭を腰にさし、やせた女牛にまたがって「我こそは東大寺の聖宝なり」と大声で告げながら一条大路を大宮から河原まで(約1.7km)進むという、とんでもないものでした。ただ聖宝はこれをやってのけ、東大寺の僧からしもべにわたるまで、食事の内容がよくなったということです。

東大寺で修行すること5年。聖宝は東大寺で学びながらも、その修行に限界を感じ、役行者が開いた修験道に悟りへの答えを求めて、吉野の山中に分け入ったといわれます。やがて京都の真雅の元にもどった聖宝は真言密教にも傾倒していきます。ところがある時、真雅が可愛がっていた愛犬を、聖宝は鎖に繋がれていることを憐れんで放してしまいました。それに激怒した真雅によって、聖宝は追放されてしまったのです。

聖宝はその後、讃岐の国で空海の足跡をたどる旅をし、この時に一番弟子であり後に醍醐寺初代座主となる観賢となる子どもと出会っています。そして京に戻ると乞食坊主として生活をつないでいました。やがて聖宝が乞食坊主をしているうわさは広がり、当時の権力者・藤原良房を仲介にして真雅とは和解することができました。

こうして再び真言密教の道を学んだ聖宝。ただ、山での修行への思いは持ち続け、修業にふさわしい地が見つけられるように七日間の祈祷をしたところ、早朝に東の方に五色の雲がたなびくのを見ました。その山が笠取山(現在の醍醐山)。聖宝は木々をかき分けて山へと登り、その山頂近くに至った頃、一人の白髪の老翁が現れます。

翁は落ち葉の下に湧く水を飲み「醍醐味なるかな」と褒めたたえました。聖宝はこの不思議な老翁に、この地に修行のための寺を建てたいのだと伝えると、翁は自分がこの地の山の神・横尾明神であることを告げ、この地を聖宝に献上し、自分はその寺の守護神になろうといって姿を消しました。そうして営んだ草案が醍醐寺の始まりです。聖宝は最初に准胝観音と如意輪観音を彫り、安置するお堂を立てました。・・・以後、次回へ続きます。なお、横尾明神は現在も醍醐水に向かって左手側の階段を登ると小社としてお祀りされています。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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