天智天皇陵 飛鳥時代の天皇の墓

天智天皇陵
地下鉄の御陵(みささぎ)駅のほど近くに、地名や駅名の由来ともなった天智天皇陵あります。

天智天皇陵京都の都としての始まりは、恭仁京を除けば長岡京に遷都された784年からです。それ以前の都は平城京にあり、短い都の恭仁京(や紫香楽宮)もはさんでいました。さらにその前には藤原京、そしてその前に飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)があって、ようやく天智天皇が関わる大津宮が出てきます。天智天皇は即位前の名が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)で、大化の改新を成し遂げた人物として日本史上著名ですね。

天智天皇陵 参道入り口そんな天智天皇の陵墓が京都にあるのは不思議に感じるかもしれません。没年は672年で、平安京ができる100年以上前に亡くなっています。しかし天智天皇は大津宮で即位をし、最後まで大津宮を本拠地にしていました。大津と陵墓のある山科は近い場所ですので、京都にあるのも理にかなっています。また、天智天皇陵は被葬者に疑いがないとされる、数少ない天皇陵の一つでもあります。まさにその場所に天智天皇が眠っているというのですから、歴史を偲ぶのにこれ以上の場所はないでしょう。

天智天皇陵 参道ただ、天智天皇陵については「扶桑略記」に興味深い話が出ています。ある時、天智天皇が山科まで馬に乗って出かけたところ、いつまで経っても戻ってきませんでした。心配して探しに行くと天皇の沓(くつ:靴)が落ちているのが見つかり、その場所に墓を作ったというものです。なかなか刺激的な伝説で、この通りだとすれば天皇はそもそもここには眠っていないことになります。天智天皇が亡くなった直後には壬申の乱が勃発したため、陵墓の建設は死後28年を経た699年に着工したと「続日本紀」には記されているそうですが、別の専門書を読むと、天智天皇の生前から陵墓が造営されていたとする研究者もいます。「沓」の伝説の真偽のほどはわかりません。

天智天皇陵 参道天皇が愛した額田王(ぬかたのおおきみ)は、山科の御陵から退くときに歌を詠み、今も万葉集に伝わっています。「やすみしし わが大君の かしこきや 御陵仕ふる山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人は 去き別れなむ(万葉集 155)」。大意はこうです。「わが大君の恐れ多い陵墓を造っている。山科の鏡の山に、夜は夜通し、昼は一日中声をあげて泣き続けていて、大宮人たちは別れてゆくことだろうか。(日本古典文学全集「萬葉集一」小学館より)」万葉集の中では、天智天皇の崩御について、他にもいくつかの歌が残されています。

天智天皇陵実際の陵墓は、御廟野古墳と呼ばれる終末期古墳で、長らく上円下方墳とされていましたが、上円部は八角形であることがわかっています。下方部の1辺の長さは70m、八角部の直径は約40mあります。また、山科の地は大津宮に近いばかりではなく、腹心であった藤原鎌足の旧姓である中臣氏の本拠地でもありました。この地に陵墓を定めたのも、そのことが関係していると考えられています。当時、天智天皇陵が占めた範囲(兆域)は14町四方もあり、事実だとすれば山科盆地の北半分という広大な範囲が陵墓のために確保されていたことになります。

天智天皇陵 手水鉢奈良時代に入っても天智天皇陵は重視され、この陵墓にだけわざわざ唐の国から贈られたものが献じられるなど、特別な扱いがなされています。平安時代に入っても同様で、10陵8墓の諸陵の筆頭に位置づけられていました。このような歴史的な経緯からも、天智天皇陵は、被葬者が間違いない陵墓と考えられているのです。また、近世では明治天皇陵は、天智天皇陵をモデルとして築かれました。飛鳥時代の天皇ではありますが、その死後も様々な歴史的場面に天智天皇陵が登場してきます。

天智天皇陵 日時計さて、現在の天智天皇陵は、三条通の参道入り口から長い道のりを進んでいきます。京都近郊の陵墓ではかなり長い参道で、気長に進んでいきましょう。行き着く先に陵墓はありますが、他の陵墓と同じく木々に覆われて、特に何があるわけでもありません。しかし、大化の改新を推進した、日本史上著名な天皇の墓が、被葬者も確実な状況で目の前にあるというのは感慨深いものがあるでしょう。機会がありましたら、立ち寄ってみて下さい。なお、参道の入り口には日時計もあります。天智天皇は漏刻という水時計を採用したとされ、その日付が現在の6月10日の「時の記念日」ともなっています。日時計はその故事にちなみ設置されています。

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ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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