桃山にある明治天皇陵

明治天皇陵
伏見桃山に明治天皇陵があります。

明治天皇陵近鉄の駅名で「桃山御陵前」があります。この桃山御陵が明治天皇陵のことです。幕末に即位し、東京で生涯を終えた天皇の陵が京都にあることに違和感を持つ方もおられるかもしれません。明治天皇陵が京都にある理由は、天皇の生前の意志によるとされています。天皇は元は京都の生まれであり、故郷である京都の地で眠りたいというのも、もっともな話です。

明治天皇陵実は当時の日本では、現在のように陵墓に関する決まり(法律)はありませんでした。そのため天皇の意思を反映して陵を造営することができたのです(もちろん東京に造るべきだとの声も出ましたが)。一方で法律がないということは、陵墓の形や埋葬形態、葬儀の次第に至るまでを決めねばならず、それはそれで悩ましい問題であったようです。

明治天皇陵決まりがない中で選ばれた陵墓の形状は「上円下方墳」です。上下に分かれた墳丘のうち、下は方形でその上が円形という形状の墳墓です。この形は、京都にある天皇陵の中で長らく上円下方墳とされていた天智天皇陵に則って作られました(なお現在では、天智天皇陵は円形部分が実は八角形ということが分かり、分類上は「八角墳」とされています)。明治天皇は江戸から明治へと時代の画期にあたる天皇であり、本来であれば神武天皇の陵墓に倣うべきとの声もありましたが、現実には神武天皇陵は姿が無く、また聖帝と讃えられた仁徳陵に倣うのは規模大きすぎました。そこで、同じく時代の画期である大化の改新を成し遂げた天智天皇の陵墓に倣うことになりました。

明治天皇陵明治天皇陵は、桃山の山地に棺を埋葬してから周りの山を削って整えていますが、この形式は父である孝明天皇の陵墓に則っています。また、周りの拝所などの形式は神武天皇陵に倣い、陵を石で葺くことは古代の天皇陵にならっています。葺き石は陵墓を堅牢にし草を生えさせないという目的もあります。

明治天皇陵 参道このように、決まりがない中で様々な陵墓を参考にして築かれた明治天皇陵ですが、以後の模範とはなりませんでした。大きいのは土地の問題。明治天皇陵のように広大な土地を確保するのは難しい点が挙げられます。そして大正15年に「皇室陵墓令」が公布され、以後は陵墓の形状は上円下方または円丘に、場所も東京府または隣接する県にある御料地と定められました。大正天皇陵は、この皇室陵墓令に則って造営され、昭和天皇へと続く武蔵陵墓地に埋葬されています。

明治天皇陵参道 伏見城の石さて明治天皇陵へは、桃山御陵前の駅から御香宮神社前を過ぎて真っすぐ東へ進むと、おのずと陵の参道へと入ることができます。よく整備された広くて立派な参道にはうっそうと木が茂り、辺りは伏見区民の散歩経路ともなっています。明治天皇陵は、坂道となる参道を進んだ平坦地にあり、広大な敷地を持っています。なお天皇陵の場所は、かつての伏見城の跡地でもあります。そのため伏見城の調査は、研究者でも自由に行うことができません。陵墓の参道には整備に伴って出土したという伏見城の石も置かれています。

明治天皇陵 階段天皇陵は高台にあるため、陵の南参道には長大な階段があります。その迫力たるや山地に囲まれた京都の中でも指折りで、私は勝手に「京都三階段の一つ」と呼んでいます。あとの2つは豊国廟と愛宕神社です(笑)陵が区民の散歩路になっていると書きましたが、この階段はトレーニングに活用をされていて、スポーツウェア姿の方が黙々と階段を上り下りする姿が印象的です。京都近郊の天皇陵では最も広大で整備されている印象がある明治天皇陵。辺りには、明治天皇の后である昭憲皇太后陵(伏見桃山東陵)や、平安遷都を行った桓武天皇陵(柏原陵)もありますので、併せてご参拝ください。

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ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年以上。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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