見事な紅葉に包まれる宝筐院

宝筐院
嵯峨野にある宝筐院(ほうきょういん)の境内が見事な紅葉に包まれています。

宝筐院宝筐院は、清凉寺の西に入口があるお寺で、紅葉の美しいお寺として知られます。入口は狭いものの、境内は奥深く、飛び石の参道などが趣を感じさせてくれます。京都らしさを感じられる場所ですので、今週末にかけてもおすすめです。

宝筐院寺の創建は平安時代で、白河天皇の勅願によって建てられた善入寺を前身とします。南北朝時代に夢想疎石の弟子である黙庵が寺を再興し、以後臨済宗の寺になりました。室町幕府の二代将軍・足利義詮(よしあきら)は黙庵に帰依して寺の復興整備に尽力し、当時は立派な伽藍が立ち並んでいました(このとき寺名を観林寺と改称したとも)。一方、もう一人黙庵と交流のあった人物がいました。室町幕府と敵対していた南朝方の楠正行(くすのきまさつら)です。

宝筐院正行は、楠正成の嫡男で、正成と区別するために「小楠公(しょうなんこう)」とも呼ばれる人物です(正成は大楠公とよばれる)。正行は1348年に四条畷の戦いで命を落としますが、生前の親交によりその首は黙庵によって善入寺に葬られました。後にこの話を黙庵から聞いた足利義詮は、正行の人柄を褒めたたえ、敵方でありながらも自分もその傍らに葬るようにと黙庵に頼んだと言われています。やそして1367年に義詮が没すると、善入寺はその菩提寺となり、生前の意思通り正行の首塚の傍らに義詮の墓が立てられました。

宝筐院寺は八代将軍の足利義政の時代に義詮の院号にちなみ宝筐院と改称され栄えていましたが、応仁の乱以後は経済的に困窮。江戸時代に天龍寺の末寺となり、幕末には元治の兵火(禁門の変)巻き込まれて、ついに廃寺となってしまいました。しかし、天皇への忠誠を果たした楠正行の遺跡を守るために復興の動きが高まり、大正6(1917)年に再興されて現在に至っています。

宝筐院現在も境内の奥には二基の石塔が立ち、正行と義詮は並んで眠っています。足利家の家紋である「二つ引き両」と、楠家の紋である「菊水紋」が墓の入口の石扉には刻まれており、歴史を偲ばせます。また墓に向かって右にある「欽忠碑」は、京都府知事の北垣国道が正行の遺跡が人知れず埋もれていることを惜しみ、これを世に知らせるために首塚の由来を記して建てた石碑。紅葉のみならず、折り重なる歴史にも注目してみてください。

宝筐院
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