金戒光明寺の蓮とお江の供養塔


金戒光明寺に蓮池があり、その名の通り蓮(ハス)が咲いています。この池は古くからの由緒がある池です。周りには歴史上の著名人の墓があります。
蓮池のハスの花は数はあまり多くはありませんが、ホッとさせてくれる光景です。池は江戸時代にはハスの名所として知られていました。金戒光明寺の塔頭の西雲院でも様々な種類の鉢植えの蓮を見ることができます。文殊の塔(三重塔)を目指して階段を上り、真如堂の方へ向かう途中にあります。

お江の墓(供養塔)

金戒光明寺には今年の大河ドラマの主役「江」の墓(供養塔)があります。蓮池からすぐの場所ですので、忘れずに訪れて頂きたい場所です。建てたのは、お江の晩年に対立を繰り広げる春日局。春日局は家光の乳母として、当然家光を次期将軍にと願います。一方お江は自身の子ながらあまり懐かない家光のことをよく思わず、もう一人の子、忠長を溺愛します。ここに二人の戦いが始まります。その決着は…かなりドラマチックなので、大河ドラマをお楽しみということにしておきましょう、おそらくこの話も取り上げられるとは思いますが、どう演出されるかは楽しみです。

さて、供養塔にはお江の遺髪が納められているそうです。春日局はお江への追善として塔を建てて弔いました。蓮池にかかる極楽橋も、元は春日局が寄進した木造の橋でした。春日局は後には忠長の供養塔も建てており、さらには春日局自身の供養塔も残されています。いずれもお江の供養塔のすぐそばで、歴史の奇縁を感じます。また三重塔は、お江の夫・秀忠を弔うために、お江の供養塔の少し後に建てられました。
金戒光明寺は、浄土宗を信仰した徳川家が知恩院とともに城郭として整備したとも言われます。それが本当かはともかく、幕末にも会津藩の本拠地ともなり、徳川家とは大変に縁深いお寺です。

熊谷直実と平敦盛の墓(供養塔)

また、蓮池からお江の供養塔のある方の反対側へ行くと、熊谷直実と平敦盛の墓(供養塔)があります。一ノ谷の戦いで直実が敦盛を呼び止め討つのですが、我が子と変わらぬ歳の若さにためらった話は知られています。直実はこの出来事をきっかけに、法然上人に帰依をして出家します。出家をする際に鎧を洗ったのがこの蓮池だと言われ、そのゆかりで二人の供養塔が対の位置に建てられています。こちらも不思議な縁のなせる技を感じます。

なお、織田信長が舞う「敦盛」はこの話から出たもので、「人間50年」の下りは直実が出家をして世をはかなむ場面になります。敦盛が使ったものと言われる青葉の笛は、須磨寺に伝わっています。

アフロ大仏

おまけですが、江の供養塔の近くに「アフロ大仏」とも呼ばれる五劫思惟(ごこうしゆい)の阿弥陀如来があります。実際には「大仏」ではなく、いたって普通の大きさです。「劫」とは非常に長い時間の単位で、一説には1辺20km四方の石の塊に3年に一度天女が舞い降りて羽衣(はごろも)で撫で、その石の塊がすり減って無くなるまでの時間を「一劫」とするそうです。となると五劫とはとんでもなく長い時間。つまり、それほどの長い時間、私たちをどうやって救おうかを考え続けたため、髪も伸びたと言うわけです。

ちなみに、「じゅげむじゅげむ~」に出てくる「五劫のすりきれ」もこの「劫」のことで、それどころか億劫(おっくう)という言葉まであります。一劫ですらものすごい時間なのに、「億」劫とは。簡単には使えない言葉ですね。
なお、五劫思惟の阿弥陀如来は、京都では知恩寺の墓地や椿寺として知られる地蔵院でも折に触れて見ることができます。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として9年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。散策メニューはこちらから

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