【京都の戦争遺跡】道路の中にある、人の住まない町


今日は広島原爆の日。原爆は京都に落とす案もあったそうです。実際にはそうならず、今もこうして「京都」が残っていることは大変幸運なのでしょう(他所での不幸は辛い限りです)。これから終戦記念日にかけて、京都の戦争遺跡をいくつか紹介していきたいと思います。
堀川御池の交差点のすぐ南、消防署の前には、道路の中にある人の住まない町があります。町の名前は西三坊堀川町。地図で区画を見ると、一部が中京消防署・中京区役所にかかっている他は、ほとんどが堀川通の道の中。どうしてこのようなことになってしまったのでしょうか?

強制疎開

それは戦時中の強制疎開の結果です。御池通・堀川通・五条通・紫明通・智恵光院通・祇園白川沿いなどは、爆弾による火災の延焼を防ぐために拡張され、道路沿いの家は強制的に疎開させられてしまいました。その結果、生まれたのが「道路の中の町」。地図をよく見ているとほかにもいくつか見付けられますが、完全に人家が一軒もないのは珍しい。
京都の強制疎開は本土空襲がはげしくなった昭和19年7月から始まりました。堀川通の強制疎開は昭和20年3月に始まり、3月半ばから4月には建物の取り壊しが行われました。この強制疎開はかなり急に行われたそうで、わずか5日間で立ち退きを迫られたこともあったそうです。当時の証言をもとにした復元図などでは、御池通にも堀川通にもびっしりと町屋が並んでいたのが見て取れます。住んでいた方々は、いったいどこへ行ってしまったのか・・・。今は車が行きかう通りも、70年ほど前までは静かな町家があったのです。
実は山鉾町がある明倫小学校の周りも強制疎開の対象になっていましたが、始まる前に終戦の日を迎えます。もし強制疎開で取り壊されたり接収されていたら、祇園祭も今とは違っていたのかもしれません。
京都は西日本のGHQの拠点とされ、名だたるホテルや豪邸は米軍将校の宿舎等として接収。植物園にも住宅が建てられ、動物園内の八角九重塔跡もキャンプ地として整地される際に破壊されました。そして二条城前の堀川通は、小型飛行機の滑走路として使われました。堀川通から飛行機が飛び立とうとは・・・この道路の中の町も、現代に残る戦争遺跡。これからも合併されずに残って行ってほしいと思います。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として9年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。散策メニューはこちらから

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