清凉寺にある豊臣秀頼の首塚


大河ドラマ「江」では大阪夏の陣で豊臣家が滅亡しました。豊臣家一族のお墓は京都にも残されており、秀吉が葬られた豊国廟がよく知られています。一方、秀吉の息子・秀頼は大阪城で自害したとされていますが、その秀頼の首塚が嵯峨野の清凉寺にあります。

秀頼の首塚

昭和55年、大阪城の三の丸跡の発掘で、ある頭蓋骨が発掘されました。鑑定によると、この頭蓋骨は20-25歳の若武者で、首には介錯の跡があり、左耳が不自由であったことが分かったそうです。埋葬時には、周囲にシジミやタニシの貝殻が敷かれ人為的に埋葬されており、その他の出土品も大阪の陣の時期と合うとのこと。

以上の所見からこの頭蓋骨は秀頼のものとされ、秀頼によって再興された清凉寺に首塚が作られることになりました。石は小豆島の自然石で作らており、秀頼が妻の千姫に与えた御名号が真空のガラス箱に入れられて納められているそうです。
明治期に現在の豊国廟を築く時、秀吉の遺骸が出てきたとする話も聞きます。それが事実ならば、今一度「発掘」をしてDNA鑑定を行えば、清凉寺の首塚が本当に秀頼のもかも分かるかもしれない、…などど考えてしまうのは古墳時代や考古学を勉強し、人のお墓を掘るのを平気になってしまう私のような人物の悪い癖かもしれませんね。

大河ドラマと歴史

なお、大河ドラマの「江」、大いにフィクションが入っています。しかし史実(や伝承)もきちんと含まれているのがやっかいなところ。豊臣家滅亡までの流れでは、方広寺の鐘銘問題は史実、一方で秀忠が秀頼に「共に天下を」という書状を送ったのはフィクションで事実ではありません。大河ドラマにはそれまでの認識とは異なる歴史を広めるという危険な一面もあります。「歴史には諸説ある」というレベルを越えた「完全な創作」には注意せねばなりません。

ただ、一方でこうして「新しい歴史」が作られていくのもまた世の習い。義経記、信長公記、太閤記などの軍記物を筆頭に、過去の数々の物語によって信じられている「歴史」も多くあります。人の心に響いたり、話がうまくつながっているものは史実として認識されやすいのでしょう。秀頼の首塚についても、上記のような詳しい解説が現地に全くありませんので、やがては塚のある事実だけが先行し、新しい「歴史」が生み出されても不思議ではないかもしれません。

余談ですが、歴史認識は時代によって変化していくもので、専門家の意見ですらよく食い違っています。例えば頼朝の肖像画。神護寺にあるものは頼朝ではなく、足利直義像であるとする説もあります(ただし神護寺は否定している)。以前書いた、清和源氏は陽成源氏であるという説もそう。秀吉の妻であった高台院(ねね・おね)は、高台寺には住んでいなかったとする説も唱えられています。そこに大河ドラマのような「上手な創作」が入りこむと、さらにやっかい。歴史を語るガイドもよく勉強をしていかねばなりませんね。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。散策メニューはこちらから

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