東山駅の近く、三条通の南へと流れる白川から住宅街へ入ると明智光秀の首塚があります。近くの和菓子屋「餅寅」では、光秀饅頭も売られています。本能寺の変は今の暦に直すと7月1日の出来ごとで、光秀が儚い天下を手にしたのはちょうど今のような梅雨の時期でした。
光秀饅頭は薄皮まんじゅうで、黒糖と抹茶の二種類あります。光秀の家紋「桔梗」が刻印されていておいしそう。中には餡がたっぷり入っていますが、抹茶の方は白味噌餡になっていて他にはない味覚も楽しめるでしょう。光秀の木像と位牌を祀る祠は、代々この餅寅の家が守ってきたそうです。
光秀の首塚は東山の住宅街に隠れるようにひっそりと佇んでいます。本能寺の変で主君・織田信長を打ち果たした光秀でしたが、信長の亡骸は見つからず信長生存を恐れた武将たちが味方につかないなど、即座に天下をまとめるには至りませんでした。そうこうしているうちに、備中高松城(現在の岡山県)を攻めていた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が引き返し、山崎・天王山で合戦となりました。当初から軍勢の数に劣る光秀。山崎の狭くてぬかるんだ土地に勝機を賭けましたが、あえなく秀吉軍に敗れ、勝竜寺城から坂本城へと脱出する途中、山科は醍醐付近の小栗栖(おぐるす)で、落ち武者狩りの竹やりによって脇腹を刺され、最期を迎えたとされています。本能寺の変から山崎の戦いで命を落とすまで、わずかに11日でした。
一般的に知られている光秀の話はここまでですが、実は光秀の最期には続きの言い伝えが残されています。竹やりで突かれて自害をした光秀。遺言として知恩院にて灰にするよう家臣(溝尾茂朝)に伝えます。家臣は泣く泣く光秀の首を落とすと、馬の鞍袋に抱えて山を越え、知恩院のすぐそばまでやってきましたが、そこで夜が明けてしまったために光秀の首を底に埋め、自害をしたと伝わります。光秀の首を埋めた場所が現在の首塚の場所とされますが、あくまで伝承で真実は確かではありません。なお、残された胴体を埋めた場所は、小栗栖のほど近く勧修寺の少し南に通称・胴塚として残されています。また、光秀が打たれた小栗栖の地には明智藪がひっそりと残されています。
光秀の首塚は祠の方ではなく、その傍らに立つ石塔の方です。勘違いしやすいのでご注意ください。祠には光秀の木像が祀られています。また、この祠に近づくとセンサーが働いて明かりがつきます。それと知らずに夜に行ってしまうと・・・怖そうですね。
ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)
気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。
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