平治の乱 歴史舞台の今 その2


大河ドラマ・平清盛では平治の乱が勃発しました。ついに平清盛と源義朝(よしとも)の争いに決着がつきます。以前のブログでは、藤原信頼(のぶより:塚地武雅さん)と組んだ源義朝(玉木宏さん)らが、清盛が京都を離れている間に信西(阿部サダヲさん)を滅ぼし、クーデターを成功させたところまでをご紹介しました。今回はその続きです。

信頼らが政治的な正当性を保てたのは、二条天皇(冨浦智嗣さん)や後白河上皇(松田翔太さん)を軟禁し、手中に収めていたことにありました。完全に窮地に至ったのは平清盛。都を離れ、熊野詣でに出かけていたために、軍備を持っていないはずでしたが、平家貞(中村梅雀さん)の常に準備を怠らない対応によって武具を得るという逸話もありました。一時は大阪の阿倍野に義朝の子・義平(悪源太)が待ち構えているとの噂があったものの、実際には味方につく予定の兵で、清盛は何事もなく京都に戻ることができました。清盛は六波羅に入ると、宮中で信頼に反発する協力者を得て、天皇らの奪還計画を進めます。二条天皇は黒戸御所から女性の姿に扮して脱出。途中不審がられて呼び止められますが、天皇は女性のような容貌であったため無事に通過し、清盛らのいる六波羅へ行くことできたといわれています。一方、後白河上皇は仁和寺へと抜け出しますが、奇しくも、保元の乱で崇徳上皇(井浦新さん)が出頭したのも同じ仁和寺でした。こうして無事に天皇を手中にした清盛方は「官軍」となり、すっかりと油断しきっていた信頼は、天皇と上皇が手中から離れたことを知ると大いに動揺したといわれています。

かくして再び京都での戦が勃発。清盛は内裏が戦火で炎上するを避けるため、一旦は内裏へと攻めるものの退却をしながら六波羅へと源氏方をおびき寄せる作戦に出ます。源氏方はもともと少数で、しかも味方につくはずの部隊が平家方に寝返り、信頼が率いる軍勢は信頼自身がすっかりおびえてあてにもならず、数の上では平家方が圧倒的に上回っていました。しかしそれでも意気盛んなのは義朝率いる源氏方。少数ながらも平家の重盛(窪田正孝さん)や頼盛(西島隆弘さん)らを大いに苦しめました。重盛は家臣二人の命と引き換えに、頼盛は父の忠盛から授かった名刀・抜丸を使って戦場を脱出し、六波羅に帰還したともいわれています。

最後の戦場となったのは六波羅の向かいにある六条河原。このころには同じ源氏の源頼政(宇梶剛士さん)も天皇側・すなわち平氏側につき、義朝側の敗北は決定的でした。当時の鴨川は川が浅くて河原が広く、現在の光景とは大きく異なる世界観の中で戦いが繰り広げられたのでしょう。源氏が六波羅に雨のように矢を射かけ、清盛自らが先頭に立って出陣したといわれています(大河ドラマでは義朝との一騎打ちで描かれるようです)。義朝は討ち死にの覚悟で戦いますが、最終的には家臣の進言により再起を図るための退却を選択しました。

義朝は頼朝や家臣とともに現在の寺町通から新京極通にあたる道を通って北へと逃げて行きました。途中、八瀬では山法師に行く手を遮られ、崖から落ちた義朝が岩に馬の足がかかって助かったという伝説のある「義朝駒飛び石」が道路の橋の下に残されています。そこから崖を登った義朝が観音の霊力に感謝をして、大岩に観音を彫って源氏の再興を願ったとされ、その観音は碊(かけ)観音寺として今も静かに信仰を集めています。また、八瀬の辺りで先に逃げていた藤原信頼と出会った義朝は、怒りのあまり信頼の顔を鞭で打ったといわれます。義朝にも見捨てられた信頼はその後、後白河上皇のを頼って出頭しますが、あえなく首を打たれました。

なんとか京を逃げ延びた義朝は、尾張国で家来(鎌田正清)の親類を頼りましたが、そこで裏切られて湯殿で最期を迎えたといわれます。息子の頼朝は父の義朝とはぐれてしまい、近江国で雪の中をさまよっていたところを鵜飼の家にかくまわれ美濃国へと逃げますが、やがては見つかって京に送られました。頼朝は義朝が嫡男としており、当然に切られるはずだったところ・・・なんと、頼朝の姿が、清盛の弟で亡くなった家盛によく似ていたために、池禅尼(和久井映見さん)の嘆願によって命が助けられ、伊豆国への流罪となりました。

また、常盤御前(武井咲さん)と義朝の間には3名の子どもがいました。常盤は清水寺の観音に子どもたちの無事を祈願して、大和国へと苦労の末に逃げ延びますが、母が平氏に捕えられ厳しい尋問によって命が危ないことを耳にして、ついに子どもたちを連れて清盛のもとへと出頭しました。常盤は千人の女性の中から選ばれたほどの美人であったため、清盛の側室となることで母や3人の子どもたちの命は助けられることとなりました。義朝と清盛の二人に愛された常盤の心中はいかばかりであったでしょうか。なお3人の子供の中でも最も幼かったのが牛若丸、後の源義経です。こうして義朝の一族はほぼ壊滅。しかし、ここで命を助けられた頼朝や義経によって、後に平家は滅亡へと追い込まれることになります。

さて、平治の乱の最後の戦いの舞台、六条河原は現在の五条大橋の南・正面橋の北の付近。刑場して使われたのは西岸です。平家の本拠地・六波羅はその対岸付近で、六波羅密寺の周辺に清盛らの邸宅がありました。一族・郎党を含め、最大では5200もの屋敷が立ち並んでいたとも伝わります。義朝や信頼が逃げて行ったのは東京極大路。現在の寺町通から新京極通にあたります。八瀬では、先に述べた「義朝駒飛び石」という大きな石が国道の橋の下に、そのすぐ近くには「碊(かけ)観音寺」が残されています。義朝に先立たれ、敵方である清盛の側室となった常盤御前の墓は、六地蔵のひとつとしても知られる源光寺にあります(岐阜県関ケ原町にもあり)。常盤御前の生誕地で、晩年もこの辺りで過ごしていたとも伝わります。義朝の敗北後、六条堀川にあった義朝の館は焼かれましたが、その場所には左女牛井(さめがい)跡の碑がひっそりとたたずんでいます。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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