橘逸勢 邸宅跡の碑


橘逸勢(たちばなのはやなり)の邸宅跡の碑が、堀川御池の近くに立っています。

この邸宅跡の碑は、蛟松殿(はいまつどの)と呼ばれた橘逸勢の邸宅跡に立っています。すぐ北の御池通には森ノ木町の町名があり、蛟松殿やその北の堀川院の樹木が多くあったために名付けられたと推測されています。また、この石碑が立つ通りは「妹之辻子(いもうとのずし)」と呼ばれています。御池通と姉小路(あねやこうじ)通とを繋ぐ道で、姉小路の「姉」に対して「妹」と名付けられたといわれます。

橘逸勢といえば、平安初期の字が上手い人物・三筆の一人に数えられる人物です。他の二人は空海と嵯峨天皇。いずれも当代きっての大人物で、嵯峨天皇は大内裏の各門にかかる扁額の文字を変更する際に、自らは東の三門(陽明門・待賢門・郁芳門)を書き、南の三門(皇嘉門・朱雀門・美福門)を空海に、北の三門(安嘉門・偉鍳(いかん)門・達智門)を橘逸勢に書かせたも言われます。しかし嵯峨天皇の死から僅かに2日後のこと、橘逸勢は謀反を企てた罪で捕縛され、厳しい拷問の末に流罪となり、流される途中に亡くなりました(承和の変)。この変は一般的には藤原氏による陰謀とされ、橘逸勢も他の政治闘争で命を落とした方々と同様に怨霊として恐れられることになります。

橘逸勢は、若き日(804年)に空海と同じ船で唐へと渡りますが、酒ばかりを飲んであまり勉学にはいそしまなかったようです。ただ持ち前の書の才能は評価を受けて、唐の人々からは「橘秀才(きっしゅうさい)」と呼ばれていました。一方の空海は、恵果から密教を習得して、806年の遣唐使船で帰国をしますが、そこには唐での学問をあきらめた橘逸勢もいました。

さて、死後に怨霊とされた橘逸勢は、京都の上御霊神社と下御霊神社に祀られています。貞観5年(863年)に神泉苑で行われた御霊会でも、橘逸勢は祀られました。承和の変が起こったのが842年ですので、死後比較的間もない時期から怨霊して崇められるようになりました。三筆の一人とされながらも、弘法大師・空海とは全く違う形で信仰の対象となっていったのです。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年目。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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