詩仙堂 雪化粧の境内


今回は詩仙堂雪化粧です。

銀閣寺を後にして、向かったのは詩仙堂でした。1月18日に雪が降った時は、曼殊院までは雪がまだ見れたのですが、詩仙堂は既に時が遅く、残念ながら見事な雪景色とまでは言えませんでした。そこで今回は早々にやってきたのです。時刻はまだ9時台で人はほとんどいませんでした。

お庭は程良く雪化粧をしていて、皐月の丸い刈り込みを白く雪が覆っていました。秋の紅葉シーズンには大混雑するこの場所も、この日は静かに座って眺めることができます。ただ、寒い場所ではありますので、しっかりと防寒対策をしてお出かけされるとよいでしょう。振り返ってみると、この1年足らずで詩仙堂には4-5回は訪れていて、皐月が咲く様子や、美しい紅葉もご紹介してきました。今度は雪景色もお届でき、嬉しく思います。以前も紹介した、詩仙堂の美しい風景と、池上眞吾氏作曲の「沙羅の花」とを合わせた動画へ、今回もリンクを貼っておきます。この動画の詩仙堂は、たっぷりと雪が積もっていますね。そして私はこの曲を聴くと、お箏を弾きたくなってきます(笑)

石川丈山は、1615年の大坂夏の陣の折り、当時既に厳禁となっていた一番槍(やり)をやってのけますが、当然褒められるどころか家康の怒りに触れてしまい、それをきっかけに武士を辞めることなります。丈山が禁を犯してまで功にこだわったのは、その直前の母からの手紙で「此度の戦闘で非常の功を立てねば、母は再びお前に会わぬ」と伝えられていたからともされます。

丈山はその後、儒学の勉強を始め、詩歌の世界においても名を知られるようになっていきます。「一芸に秀でる者は多芸に通ず」。武に強かった丈山は、文の方でも才能を発揮していきました。丈山は年老いた母を養うために、安芸の浅野家に儒家として仕え、母が亡くなるとその職を辞退して京都へとやってきます。その時に浅野家は餞別として三千両を丈山に与え、この資金をもって一乗寺に建てたとされるのが詩仙堂です(ただし、京都に来てから詩仙堂が建つまで4年かかっており、丈山が京都に来てからも浅野家が支給し続けた4年分の俸禄があったからという説もあります)。

詩仙堂は丈山が亡くなるまでの30余年を過ごした場所です。丈山の人生においては、武士として活躍した期間よりも長い時間をこの詩仙堂で過ごしており、その中で、雪景色もきっと何度も目にしてきたのでしょう。お庭は丈山のころからは改変を受けていますが、高低差のあるお庭に思いを馳せることができます。じっと座ってゆっくりと眺めたいお庭ですね。このお庭は歩いて散策することも出来、皐月の他にも四季折々の花が咲きます。

建物内には、丈山が狩野探幽に描かせた、中国の漢晋唐宋の詩家三十六人の肖像が頭上に架かり、各詩人の詩は丈山自ら書いたものです。ここが詩仙の間と呼ばれ、詩仙堂の名前の由来となっている場所です。現在の詩仙堂は、正式には丈山寺という曹洞宗のお寺でもあります。ご本尊は馬郎婦(めろうふ)観音という珍しい仏様。諸願成就・学業成就のご利益があるとされ、女性の姿をされた観音様です。

唐の時代、長安の西にある町では仏教が廃れつつありました。ある時、その町に美しい女性が現れます。若者たちは次々に求婚しますが、女性は仏教のある経典を一夜で暗記できた方と結婚しますと条件を出していきます。こうして、一日ごとに暗記できた者は減って行き、最終的に「馬(ば)」という若者が残りました。馬家の花嫁となった女性でしたが、なんと結婚式の日に花嫁姿のまま息を引き取ってしまったのです。悲しみに暮れ、花嫁を埋葬した数日後、町に老僧が現れました。僧が花嫁を埋葬した場所に立ち、錫杖で棺を開くと、その中身は金の鎖状の骨となっていました。老僧は、仏を信じない者のために観音菩薩が姿を変えて現れたのだと告げ、人々に教えを諭したということです。

馬郎婦観音はこの時の女性の姿をされていて、三十三の姿に変化して人々を救う、観音菩薩の一つの姿でもあります。詩仙堂では、多くの方が真っ先に室内からのお庭の美しさに惹かれ、ともすれば仏間を素通りしかねませんが、感謝の気持ちを持って手を合わせてからお庭をご覧になるとよいでしょう。

ガイドのご紹介
吉村 晋弥(よしむら しんや)

吉村 晋弥気象予報士として10年。第5回京都検定にて回の最年少で1級に合格。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。2011年秋は京都の紅葉約250カ所、2012年春は京都の桜約200カ所を巡る。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。特技はお箏の演奏。

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