吉野太夫ゆかりの常照寺

鷹峯の常照寺を訪れました。吉野太夫ゆかりのお寺として知られます。

常照寺

源光庵の東にあるのが常照寺。日蓮宗のお寺で、江戸時代の初めに日乾(にちけん)上人によって創建され、かつて京都六ヶ所にあった日蓮宗の僧侶の学校である檀林(だんりん)のひとつとして栄えました。

常照寺

六条三筋町(のちの島原)の太夫であった吉野太夫(二代目)ゆかりのお寺としても名高く、吉野太夫寄進の赤門が目を引き、吉野門と呼ばれています。春は桜が美しい参道は、夏は緑が綺麗で、秋には紅葉が見事です。

常照寺 遺芳庵の吉野窓

境内には吉野太夫の墓や、太夫ゆかりの茶室・遺芳庵があり、その丸窓は完全な真円ではなく底が一部平らな形をしています。これは真円は満月を連想させ、満ちれば欠けていくのが世の常。あえて満月手前の月のように完全ではない形とし、そこに自分自身を省みて日々精進を重ねるという意図で吉野太夫が作らせたとの話しから、吉野窓と称されています。

常照寺 遺芳庵の吉野窓

吉野太夫の墓とは別に、吉野太夫とその夫である豪商の灰屋(佐野)紹益の墓(供養塔)「比翼塚」もあります(昭和46年に当時の片岡仁左衛門が建立したもの)。灰屋の屋号は紺染めに必要な灰汁(あく)作りの原料となる灰を諸国へ商った商売から来ており、灰屋紹益は本阿弥家の一族の出自。吉野太夫より4歳年下だったとされ、関白となった近衛信尋(このえのぶひろ)と吉野の身請けを争って勝ち、婚姻しました。

常照寺 吉野太夫の墓

しかし10年余りの夫婦生活を経て、吉野太夫は38歳で亡くなってしまいました。最愛の妻に先立たれた紹益は、火葬にふした吉野の骨を集めて粉とし、酒に浸して飲んだとも伝わります。そして「都をば 花なき里と なしにけり 吉野の死出の 山にうつして」と詠んだといいます。常照寺は吉野太夫の物語を偲ぶお寺。よければお墓にもご参拝ください。

常照寺 比翼塚

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京都検定1級に5年連続最高得点で合格(第14回合格率2.2%)、「京都検定マイスター」。気象予報士として10年以上。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。毎月第2水曜日にはKBS京都ラジオ「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」に出演中。「京ごよみ手帳 2022」監修。特技はお箏の演奏。

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