氷室神社と氷室の跡

鷹峯から奥へ車で険しい坂道を進んでいくと京見峠にたどり着きます。その先の「氷室別れ」からさらに峠を越えた場所に氷室の集落があります。

氷室神社

氷室の集落は、住所では「西賀茂氷室町」となります。西賀茂は神光院や正伝寺のある一帯を指しますのでその近くかと思いきや、京都市街地からは山道(京都一周トレイル)を除けば、京見峠方面から来るほかありません。京見峠は標高が446mもある京都近郊では有数の険しい峠。その高さは鞍馬山の本殿金堂よりも高い位置にあります。「氷室」は、健脚でなければ自動車(ないし自転車)で行く場所と言えるでしょう。

西賀茂氷室町

氷室の集落は京見峠を越えた「氷室別れ」の標識から、もう一つアップダウンの激しい峠道を越え、下りきった先にあります。四方を山に囲まれた地で、深い山中にこうした平坦な集落があることが不思議なくらいの場所。標高は約380mです。その不便な立地もあってか近年は過疎化が顕著で、住んでいる人は2020年10月1日現在の国勢調査の速報値では15名まで減っています(2013年4月1日では23名でした)。

氷室神社

氷室とは冬にできた氷を保存しておく穴のことです。冬の間に氷を蓄え、夏に取りだして宮中へと運び、高貴な人々は甘い蜜をかけて食べていました。平安時代に書かれた清少納言の枕草子の42段にも、「あてなるもの」として「削り氷にあまづら(甘葛)入れて新しき金碗(かなまり)に入れたる」が登場します。「あてなるもの」とは上品なものという意味で、清少納言が見ていた涼しげな光景が目に浮かぶようです。また、源氏物語の「蜻蛉」にも、炎暑の盛りに宮中の女房たちが氷室から取り出した氷を割って戯れている様子が描かれ、「常夏」では”水飯”といって、飯を冷たい水に浸して氷を入れて食す描写があります。1000年前の真夏に氷を得られたというのは驚きですね。

氷室神社

実は氷室の歴史そのものは古く、古事記では仁徳天皇に献上されたとの記述があるほど。古代にはその数は全国で500以上、山城国には約300あったともされます。平安京に都が移った後は、主水司(しゅすいし、もんどのつかさ)という役所が氷室の管理を行っていました。主水司跡の石碑は、丸太町智恵光院付近に立っています。京都には現在もいくつか「氷室」と名がつく場所が残っており、比較的市街地に近い場所にもあります。2022年は下鴨神社に氷室が復活したことも話題となりました。

氷室神社

さて、西賀茂の氷室の集落は四方が山に囲まれているため、密度が高くて重い冷たい空気がたまりやすく、朝の冷え込みは想像以上に厳しいと推測されます。逆にいえば「氷室」を作るには最適とも呼べる立地です。集落には氷室神社があり、ご祭神は仁徳天皇の時代に氷を作って額田大中彦皇子(ぬかたのおおなつひこのみこ)に献上した「稲置大山主神(いなぎのおおやまのぬしのかみ)」です。宮中の氷のことにたずさわった清原氏が勧請したと伝わっています。木々の中に佇む本殿や拝殿のうち、拝殿は寛永13(1636)年に、後水尾天皇の第二皇女が近衛家に降嫁した際に造営された御殿内に建っていたものを移築したと伝わります(傷みが顕著で覆い屋に囲われています)。

氷室神社

氷室はこの集落のように冷気の溜まりやすい山間部の窪地に作られました。まず斜面に穴を掘り、底には茅などの枝葉を敷きます。その上に板を乗せて近くの池で採った氷を入れ、さらに上から板をかぶせ、板の上を草や土で覆って夏まで保管しておいたそうです。

氷室跡への道

氷室神社から集落の奥へと進み、看板を頼りに左へ歩いていくと氷室の跡があります。氷室神社の前の案内板に地図があるので、参考にしていかれるとよいでしょう。この氷室跡は「栗栖野氷室」だと京都市の説明版には書かれていますが、学者さんの中には「土坂氷室」を「長坂氷室」の誤りと見て、ここは「長坂氷室」だと考える説もあります。

氷室跡への道

氷室の集落にある氷室跡には、丸いくぼみが3つ残っています。氷室跡の大きさは直径で3-4m、深さは1-2mとそれほど大きくはありませんが、斜面途中の平ら場所に作られていて、冷気が溜まりそうな「最も土地の低い場所」ではありませんでした。氷自体は氷室の下にある池(氷池)でつくり、この氷室に氷を運び入れて、先述の方法で保管をしておいたようです。この氷室自体の成立年代などは定かではありませんが、氷が険しい峠道を越えて京都まで運ばれていたことを想像すると感慨もわいてきます。

氷室跡

旧暦6月1日は「氷の節句」と呼ばれ、氷室から取り出した氷を口にすると、その夏を健康に過ごせる(夏痩せしない)といわれていました。しかし実際に氷を口にできるのは宮中の高貴な人々のみ。庶民にとって夏の氷は手の届かない代物でした。そこで考え出されたのが、京都では6月に和菓子屋さんに並ぶ「水無月(みなづき)」です。

氷室跡

三角形の形は、今回ご紹介した氷室神社の紋ともいわれ、あるいは氷が割れた様子を表すともいいます。白い外郎(ういろう)も氷を意味し、その上に魔よけの力があると信じられる小豆を乗せた、京都の6月には欠かせない和菓子となっています。今では旧暦6月1日に近い、6月30日が半年間の罪や穢れを払う夏越祓(なごしはらい)で、水無月を頂いて夏の無病息災を願う風習となっています。

水無月

かつての氷室は跡しか残っていませんが、私たちの生活の中に、その名残が残っています。かつての宮中を想像しながら、氷の入った冷たい飲み物と一緒に水無月を頂くのもよいかもしれませんね。最後に、氷室神社に掲示されていた藤原定家が詠んだ風流な和歌をご紹介しておきます。「夏ながら 秋風立ちぬ 氷室山 ここにぞ冬を 残すと思へば(拾遺愚草)」。

西賀茂氷室町

ガイドのご紹介

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京都検定1級に5年連続最高得点で合格(第14回合格率2.2%)、「京都検定マイスター」。気象予報士として10年以上。これまでに訪れた京都の観光スポットは400カ所以上。自らの足で見て回ったものを紹介し、歴史だけでなくその日の天気も解説する。毎月第2水曜日にはKBS京都ラジオ「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」に出演中。「京ごよみ手帳 2022」監修。特技はお箏の演奏。

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